平成5(1993)年11月6日、寒い小雨の振る中、吉野は山下と機関士を退職した菊池、小樽市観光課の田宮と共に彼の知人が主催した「C623見学ツアー」の案内役として小樽運転所を歩いていた。

 実は「本能寺」は不発に終わっていた。残ったメンバーと彼の周囲の数人で日本トレインクラブも北海道鉄道研究会も存続し、秋には「青年文化連盟」を立ち上げて「鉄文協崩壊後」のシナリオを作り始めていたのだった。そして、ツアー参加者の中に後の交通文化連盟常務理事・宮本伊豆守の姿もあった。

 平成4(1992)年3月31日で日本航空と上島珈琲がスポンサーから撤退した。メインスポンサーはハドソン一社となり、巨額の負担がのしかかった。一番の危険人物を処分したボランティア局だったが、その後から「派閥化」が顕著となった。詳細な報告は途切れずに吉野にもたらされて居たが、組織崩壊の近付いている事は明白だった。

 鉄道雑誌には鉄文協の資金難と寄付を呼び掛ける告知が毎回掲載された。何時の間にか顧問には国鉄にも蒸気機関車技術にも無関係な鉄道ファンが就いていた。

 蒸気機関車だけに限った事では無いが、プロジェクトの実現はそれに生命を掛けられる程の覚悟と公明正大で冷静な分析・判断力を持つリーダーと中核の「幕僚」の存在は不可欠である。市民運動として拡大される或は資金提供・融資を与えてそのプロジェクトを成功させる事を意図とするならば、自己の首を以て責任が取れない軟弱・無責任な者は口を出してはならない。勿論、各自のセクションの立場や見解・現実の報告や意見を交換し、戦略を検討する場は必要だが、それは「関わる人間全員に等しく与えられる発言権」が大前提である。利己主義者は成功者には絶対成り得ない。

 殊に趣味色が強いものはそのボランティアなりプロジェクトに参加する起因が趣味=利己的行動であり、自己の満足の追求が原点である。しかしそれはそれ、プロジェクトはプロジェクトとして「無私」にならなければ「満足できる結果」など有り得ないし、それが出来無い「無責任」人間は決して出過ぎてはならない。単に我が侭にしかならないし、そう感じ取られないからである。

 そして、一軍の将たる者は「一将功成って万骨枯る」と言う姿勢や言動では真の勝利はやはり掴めない。これは歴史の教科書を捲ると実例が山程書き記してある。

 平成6(1994)年5月に北海道鉄道文化協議会は本部を小樽から札幌市内に移転、更に10月にはハドソン本社内に移転し、工藤と鉄文協は一定の距離が生まれる事になった。


 崩壊は予想以上に早かった。

 平成7(1995)年1月10日午前、青年文化連盟事務所の電話が鳴った。マスコミに勤める知り合いからだった。

 「あのさ、工藤竜男って、小樽の人・・・君の師匠じゃ無いの?」

 「ええ、企画について基礎を教えてくれた人ですよ、ちょっと今は距離置かれて嫌われちゃってますけれど・・・」

 「冗談言っている場合じゃないぜ」

 全国ネットのテレビニュースで懐かしい顔が出ていた。慌てて音を上げた・・・ミリタリーマニアの彼ではあったが、本物の鉄砲を持っていたなんて・・・間違いじゃ無いの?好きだったから・・・

 しかし、銃刀法違反で逮捕されたのは確かだった。北海道鉄道文化協議会の会員が実砲を所持していて、その取調べの過程で彼の所持も判明したのだった。

 1月16日には鉄文協は工藤の専務理事・事務局長の解任と逮捕された他の会員の除名が決定された。こう言う事は素早いと感心したものだった。


 結局、ハドソンも巨額の負担は限界だった。そこに哲学も執念も無かったし、原点の「国鉄・小樽築港機関区扇形庫・蒸気機関車技術者・小樽」の4つのキーワードが全て失われていて単にC623機の運行をするだけの事業となっていたのだから、人や企業や金銭が集まる求心力など有る筈も無かった。

 11月3日。小沢を過ぎた辺りから小樽行「快速・C62ニセコ」は小雨の中を遅れて走っていた。満席の車内だったが、そこにマグカップに入ったたっぷり珈琲を運んで来る美人ウェイトレスの姿は無かった。カフェカーは雑談場になっていた。

 そして周囲は薄暗くなり小雨は雪になった。

 皮肉にも「雪のC623機」は最後の運行で実現したのだった。

 17分遅れで小樽駅1番ホームに到着した列車は、惜別の人で混雑していた。

 一際永く汽笛が鳴った。C623機は単機小樽駅を後にし、計366日・62683キロ・7年に渡る北海道鉄道文化協議会によるC623機運行は終わった。

 鉄文協にも馬鹿は居た。未経験ながらもスポンサー獲得に歩いた人も一人では無かった。しかし、景気の悪化と説得力の弱さは如何ともし難かったのである。

 翌平成8(1996)年、北海道鉄道文化協議会は「軌跡」を刊行して解散した。

 それは事実「破綻」と言って良い。この時、昭和62年3月31日、あの奇跡の復活の吹雪の中で輝いていた鉄道屋の姿は無かった。


 北海道鉄道文化協議会の破綻の最大の原因は、「技術・精神の継承と後継」と言う、情熱と企画の基本理念・哲学が欠落した事にある。SL技師だけでは勿論実現しなかったし、企画屋だけでも実現しなかった。更に資金がどれ程有ろうとも、熱烈なSLファンが居ても、個々個体のみでは不可能を可能にする事は出来なかった。

 人は城、人は石垣、人は壕、情は味方、怨は敵也

 各々が各々自分にしか無い役回りで、どれも欠けてはならない華を、まさに桜梅桃李の華を咲かせた、その結果がC623機復活だったのである。

 吉野は悔しかった。どうしても小樽へ行き最後の列車を見送りたかった。貯金を降ろして切符を買おうと出掛ける刹那、電話が鳴った。昔勤めていた会社の先輩だった。

 「3日でC62終わりだね・・・吉野の言う通りになったけれど、これで鉄文協ってどうなるの?」

 「・・・多分、解散だと思いますよ。」

 「じゃあ、次も旧式の客車で頼むよ、今度は長万部か途中ディーゼル(機関車)で良いからさ、函館からとか・・・で、やっぱ重連だろう!」

 「え?」

 「お前がさ、今度はやる番なんだよ。正々堂々、変態で馬鹿、通せられるじゃん。」


 国鉄の分割民営化以降、復活した最大の蒸気機関車で、破綻した唯一の蒸気機関車であり、最初に市民主導で実現し、ボランティアが運行に直接参加したケースであり、世界から見学者を呼んで、ボランティアが組織崩壊まで呼んでしまった最初の蒸気機関車が、北海道鉄道文化協議会のC623機計画だった。

 では誰が悪かったのか・・・何がいけなかったのだろうか・・・「あの時はあれでしょうがなかった」と口にした者が悪かったのだ。そこで妥協し、安易な責任の押し付けに流された者の臆病が罪なのだった。

 工藤の専務理事としての業務上の責任は確かに最も重い。鉄道マニア達の我が侭も反理だし、時の感情に流されて目的を見失った事も、意地や見栄に我が身を飾り虚栄の優越に酔いしれた事も悪だ。しかし、本当の悪とは、悪を悪と堂々と糾弾し、諫言し、真に山下や竹島、小樽などの地域の人々、全国の鉄道マニアやSLファンの言葉や夢、希望を真意に汲み取ろうとせず、自己の保身に動いた臆病の精神こそ悪だった。

 だから、吉野は言う、

 「本当の大罪は私なのですよ。」

 運行当初、或る国鉄OBに彼は言われた。

 「君が一番若いんですね、君はこのSLの全てを見聞きして、それを後世に伝える役割があるんだと、思いますよ。」

 「君こそ、本当の最後の国鉄人です。」

 その先達達の精神の後継を何時しか忘れ、「俺はボランティアをやってやってるんだ」と傲慢になっていた・・・組織は企業であれ任意団体であれ、どこまでも「人」が形作るものである。その「人」の中に「精神」が無ければ、単なる「団体」否「集まり」でしかない。その理屈が判っていたのにも関わらず、彼はそれを生命の奥底で無視したのだ。

 だから、彼にはC623機を再起させなければ成らない宿業がある。それが「懲役」と言う。

 「だから、死ねないんだね」

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