平成元(1989)年3月の晴れた午後、吉野は東京・飯田橋の鉄道ジャーナル社に居た。

 前年の12月23日、折から運行中のフジテレビ企画「オリエント急行88」でD51498機が復活・上野〜大宮間を牽引したが、この時に現場を見学しに北海道鉄道研究会鉄道輸送警備隊メンバー4人が大宮駅で引き起した「事件」の顛末を報告するためだった。

 「事件」はこの列車が大宮駅ホームに40分以上停車し、機関車交換をした際に起こった。殺到した鉄道マニアの整理に駅員・警備員・鉄道警察隊員と厳重警戒体制だったのだが、押し寄せる鉄道マニアの人数はそれをはるかに超えて、その圧力で警備員が軌道上に転落するのを見て、黙って居られなくなった4人が、鉄道マニアを押し戻した。その際に

 「ここで事故があったら、C623もD51も今後運行出来無くなるぜ!押すな!」

 と言ったのに対して、撮影できなかった鉄道マニアが一人に食って掛かり

 「何の権利があるんだ!」

 「ボランティアだよ!権利なんか無い。ただ、鉄文協のボランティアでもあるから、事故を見過ごす訳には行かない、それだけだっ!」

 が、「鉄文協のボランティアが撮影妨害をして、自分達だけ撮影した」と摺り替えられたのである。もとより、現場の状況を記録する為にコンパクトカメラは所持していたが、それは記録の担当者が持っていただけで、鉄道輸送警備隊では警戒任務時は自己の趣味活動は一切禁止している。更にこの時はこの記録担当も「危ない!下がって!」と連呼していたので、この時の写真は一枚も無いのである。

 ただ、この「事件」は札幌の鉄文協ボランティアでは大問題になった。と言うか・・・そうされたのである。

 北海道鉄道研究会メンバーはその多くが鉄道に勤め、元々が国鉄上野駅の臨雇である。鉄文協になる以前から工藤や渡部達のサポートをしていた。それが疎ましい者が居たのである。(後日に独自に調査をし、これが一種のデマとして意図的に仕組まれた事が判明し、その撮影出来なくて食って掛かった者の幾人かがその知人であった事も解る。「東京の奴等は生意気だ、何時か痛い目に遭せてやる」との発言も複数のボランティアから証言されている。)

 その「苦情」は鉄文協・JR東日本に向けられ、その事実確認と対処の為の「事情聴取」に呼ばれたのだ。

 竹島は物静かに事実の確認をした。吉野は怒り心頭だったが、物静かな竹島の話に徐々に冷静になって来ると、初年度から多々耳にしていた憂鬱な情報が線になって来た。その中で、逆に竹島から或る「別の事件」について尋ねられたのである。

 「ウチのカメラマンが、初日に撮影に熱中していてファンの人をレールに突き落として怪我をさせたと・・・」

 「は?初日のセレモニーの時ですか?一緒に列車の最後尾で話をしておりまして・・・機関車には発車前に、私もずっと一緒でしたから・・・」

 それは或る自称大学講師なる人物がJR北海道・大森社長に語られた、と言うのである。初年度の7月以降、鉄文協に対する鉄道マニアの嫌がらせは水面下で起きていたが、これは明らかな営業妨害だし、第一に悪意に満ちた虚偽の押し付け、謀略とも言える。

 実は鉄道輸送警備隊は現場で警備だけをしていたのでは無かった。悪質な事案は調査して事実の裏付けをして、「被疑者」の背後から洗い出して、エスカレートするものにはそれらの事実を突き付けて「事件」への未然防止をしていた。それは事務局には報告したが、渡部達スタッフには敢えて報告はして居なかった。

 約2ヶ月の「内偵」でその「自称大学講師」の顔写真・自宅・勤務先(大学講師などでは無かった)と、鉄道マニアグループ等のつながりも洗い出した。実に55日・3ヶ所に及ぶ「張り込み」から割り出したものだった。鉄道輸送警備隊メンバーは義憤心からまさに無報酬でそれらの「防圧活動」をしていた。

 「おかしいなぁ、警視庁に勤めた記憶無いんですけれど・・・」

 と、冗談を言い合う位が「報労」だった。

 問題は、事務局は彼等がそんな「乱破」だった事を知りつつ「大宮事件」では庇う事すらしなかった事だった。それ以前から不信感は起こっていた、それらの報告に対する対処も任せられたが「一切、鉄文協とは名乗るな」と言うのである。つまり問題が拡大しても小樽は知らない・関係無い、とする様な指示が多かったのである。結果、吉野達は「竹島顧問に報告チャンネルを移す」として行くのである。

 一方、鉄文協では在道ボランティアのメンバーが定着し、腕章とタグを付けたメンバーが沿線でも列車でも目覚ましい活躍をした。が、トラブルも表面化していたのである。沿線で撮影する鉄道マニア達の殆どは沿線に出て警戒するボランティアの指示に従ったが、その一方で「警備だ」と称してマニアを下げて自分達はベストポイントで撮影している・・・これにも多くは黙認したものの、一部は明確にその「差別的な扱い」に反発して非難した。

 「俺達が走らせているんだ!文句言うならロクニ撮らせ無いぞ!」

 と、逆に恫喝されてしまうのである。

 それが「北海道鉄道研究会の吉野の指示だ」とマニア間に拡げた複数の者が居た。そのとばっちりで24時間ひっきり無の悪戯電話や注文した覚えの無いそばやピザ、これだけなら可愛いものだったが、上野駅で2・3人のマニアに暴行される「事件」まで起こった。恨む前に何か考えろ!趣味は自利だろ!と吉野は怯まなかった。そこが彼が本物の馬鹿たる所以である。


 12月16日、鉄文協は組織を一部改編し、ボランティアセクションが本部組織として設けられ、彼等は理事同等の発言権を得られた。組織の運営にあらゆるセクションの意見が反映される事は市民運動のみならず重要な事ではあるが、一部門が突出する事は組織の崩壊を招くだけである。勿論、それを調整し活かし動かすのは指揮官の役目なのだが、その「指揮官」の責任が不明瞭になるのが任意団体や市民活動の弱点でもある。更にこの時、渡部や山下達「築港グループ」が名前ばかりのセクションに追いやられ、実質「切り捨て」られた。

 翌年2月、本部は運河工芸館から松田ビル内に移転した。「工藤コーポレーション」も併設された不可思議な拠点である。しかし、この頃「ミスターSL」・「鉄文協の顔」・「唯一の実務担当者」は工藤であり、それも又許容される雰囲気があった。

 この頃、鉄文協は運行経費の重圧が表面化して来ていた。同時に工藤は何かに焦っている様子が見て取れた。昭和63(1988)年12月の常任理事会で決定した筈の東京上京計画・・・C623機の誘客の起爆剤として構想されたものだが、先のD51498機によるオリエント急行運転での混乱は、首都圏の蒸気機関車運行を実質困難化させていたし、資金確保が思う様に行かずに立ち消えとなっていた。ニセコへの延長は平成2年度から実現する運びとなっていたが、これはハドソン・工藤社長の故郷であるとの関連から転車台の移設関係費用は全額ハドソンが持つ事となっていた為に実現した、言わば当初からの「約束」だったので、鉄文協となってからの独自独創のプログラムは中々着手も実現もされてはいなかった。

 更に、工藤の周囲の使途不明金も知れていた。それまで手弁当で駆け回った彼だったが、この頃には「442倶楽部」は閉鎖され、工藤は「企画」を主業としていた。勿論、事務局長として鉄文協の諸作業に当たらなければならなかったので、その給与は出して然るべきだし、誰もそれを非難するものなど無かったのだが、何故かこの辺りでは工藤は不明瞭な言動をしていた・・・結局、初年度の札幌テレビでの広告料金(一説にはイベント制作費用とも)3千万円の明確な裏付け資料を伴う説明を吉野も竹島も聞いていない。


 その焦りからなのかは不明だったが、千葉県の印刷業を営む男性が鉄道趣味の仲間達数人と雪のC623機運行を企画した。後に「冬期運行計画」と呼ばれるものだが、「雪の行路」にも出て来る深雪の峠道を行くC623機はSLマニアの共通した「夢」で、そのプランは理解できる。その男性達は工藤や東京の某理事と連絡を取り合い、「実行委員会」を結成し、内々に旅行会社等と準備を進めていた。

 平成2(1990)年7月、鉄文協会員(3千円を拠出した寄付者を「会員」として登録するシステムだった。)の殆どに冬季運行の案内リーフが送付された。吉野はこの理事に呼ばれ、都内で「実行委員会」と面会した。構想の詳細を聞いて、「列車には身体障害者の子供達を招待したい、しかし窓は開けさせません。撮影していて見苦しいので、窓を開ける事の出来ない障害者を・・・」と言う点に内心反発はしたが、その熱意に協力するものとした。

 早速、小樽へ行った吉野は山下の自宅を尋ねた。「実行委員会」に内々要請された「山下顧問による実施の技術的問題解決」の相談の為・・・だったのだが、前夜に「小樽時代」で渡部と共に聞いた時には「山下顧問による実施の意図の真意の事情聴取」になってしまっていたのだ。山下は純粋に検修技師として聞き、純粋に鉄道人としてその困難を説いたのだった。

 「あのな吉野君、雪道の上り勾配で途中停車して、再び走り出すなんてサーカスの綱渡りみたいなもんなんだ、濡れた軌道の踏面で停車したり動き出したりするのだって、軸重軽減のロクニには難しい事なんだ、それを勾配の途中でお客さんの乗降までとなったら・・・」

 企画自体が撮影を主眼としたもので、法的にも困難なのは吉野も解っていた。しかし、技術的側面からも困難となれば、それも「神様」の結論である。

 抜き打ち的な広報に真船を始めとした在道ボランティアは困惑し、反発していたが、実現すれば「憧れ」の「雪のロクニ」である。協力はしたいものだが・・・と何人かは語っていた。

 しかし、8月7日に鉄文協本部(ハドソン・ボランティア局)はこの企画の協力を拒絶した。が、C623機の使用まで阻むものでは無かったのだ。ここにマニア心理の微妙が見て取れる。

 旅行主催を受け持った旅行会社も再三JR北海道や鉄文協・中澤会長に実施を働き掛けたが、法制的問題を考えていなかった企画には実現力は付いて回らないものである。遂に実行委員会もこの企画を一旦断念した・・・問題はその後だった。実はこのツアーはJR北海道が輸送引受をしないままに参加者を募集していたが、突然中止の連絡があり、説明会もあったものの、「更に引続き実現に向けて努力して参ります」と言う主旨の説明が付いていたのである。多くの参加者と一般の鉄道マニアは、「今年が駄目でどうして先にはできるの?結局ダメなんじゃ無いのか?」と疑念を抱かざるを得なかった。

 この時期、在道の鉄文協ボランティアの7〜8人と鉄道輸送警備隊メンバーは緊密に連絡を取り合って情報の交換を始めていた。お互いに不安だったのだ。その結果として、何処かで情報が停止したり、意図的に曲解されている事が明白になった。在道ボランティアの間では「小樽築港機関区企画室」のチャレンジストーリーは一切知られていなかった。それに触れることも「タブー」的雰囲気なのも知ったのである。その疑念は二人のボランティアが抱いた事だった。彼等はあの62年4月1日の未明に吹雪の小樽築港機関区扇形庫の前で「吉野演説」を聞いていたのだった。

 「どうしてあの話がされないのだろう?」

 ボランティアの一部がスポンサー社から個人的に雇用され給与を受給されたり、またスポンサーサイドのスタッフ(スポンサーの下請や関連会社の社員等)達が自己の親会社の意向を反映させる為に様々に勝手をしたり・・・そんな情報がもたらされる中で、遂に竹島は吉野や在京の関係者を内々に招集し、「鉄文協再構築」を提案するのだった。


 「乱世って言うのかねぇ、築港機関区の話とか、純粋な情熱とか、今の鉄文協や工藤さんには全然見られ無いし感じられ無いよ、悪いけれど俺は降りるよ・・・」

 12月、遂に鉄文協の混沌に嫌気を差して吉野が頼りとしていた「捜査隊長」が北海道鉄道研究会を去ったのを皮切りに、北海道鉄道研究会・日本トレインクラブまでもが崩壊を始めていた。


 平成3(1991)年3月7日。その日渡部は休日で、所用で小樽運転所に出掛けた。国道5号から曲がると・・・扇形庫が解体されていた・・・本来、この扇形庫の存続の為に、小樽にSLの運転基地を留める為に彼等小樽築港機関区企画室は無私でC623機計画を構築したのに、である。

 その夜、千葉県松戸市の吉野の許に渡部から電話が入った。吉野は絶句した。

 「これは工藤さんの裏切りに等しい!どんな事をしてでも扇形庫は護らなければならないのに!」

 翌日、彼は鎌倉・世田谷・千葉市と巡って歩いた。首都からの反撃の準備の為だった。


 7月、その吉野は工藤に来樽の指示を受けて小樽へ向かった。

 「実は鉄文協として現在は通過点になっている倶知安をどうにかしなければ成らなくてね、観光拠点を作る事にしたんだけれど、そのスタッフに君をと考えてるんだ、俺を助けてくれないか・・・」

 8月になっても具体的にその話は無かった。彼は「小樽時代」の皿洗いをし、乗務ボランティアを手伝いながら待った。しかし、それは以外な結果となった。

 「吉野さん、あんた何様よ、あんたロクニの為に何したのよ!」

 ボランティア局長の某が突然吉野を非難した。それは彼の上野駅時代や警備隊の話をしていた時だった。彼が国鉄の人間だった事が気に触ったらしいが、一連の「謀略」が誰の意図だたのかもはっきりした。それを渡部に報告すると、

 「・・・吉野君よ、あんた何しに小樽に居るのよ、店の手伝いは嬉しいけれど、遊びでフラフラ居られるのは目障りなんだよ。その彼の言う通りだ!工藤君も心配していたよ、彼は何がしたいのかってな。」

 渡部は苛立ちを見せて彼にそう言った。吉野はやられた!と思った。彼を疎み憎む者がボランティア局には多いので気を付けて下さいと警告されていたのに・・・更に考えれば、一番の「武闘派」で「固い連帯を持った警備隊の指揮官」である彼は、趣味と言うだけの脆弱な意志で集った組織の中では余りに危険な、そして恐れられる存在であり、それらの事から判断して工藤は最初から彼の放逐を意図として小樽へ呼んでいたのだ。

 「済まない・・・こんな状況なので、とても倶知安どころでは無くて・・・今は君が退いてくれ・・・全部丸く収まるから・・・勿論俊ちゃんだけに泥は被せない、ロクニは護るから・・・」

 と、工藤は言った。後日解った事だが、倶知安のプランはあった。が、それは吉野を関わらせるものでも、レストランの副支配人に据えられるものでも無かった。並行して、在京唯一の理事が解任された。言わば「再構築」に関する報復だった。しかし、吉野は自分が退く事がC623機を存続させられるのならば、と自分を納得させ、敗残感だけを味わって彼はその日のうちに小樽駅の改札をくぐっていた。

 その在京の某理事と或るボランティアのリーダーは元々北海道の鉄道写真同好会の仲間だった。しかし、この二人は非常に詰まらない事で擦れ違いを起こした。非は相互にあったとしか傍には見えなかったが、一連のボランティア関係の軋轢はこれが原因となっている。帰京後彼はそれをその理事本人に指摘して非難した。

 その冬、吉野は冬季委員会に呼ばれた。

 「君が山下さん達に吹き込んで、冬季運行ダメにしたんじゃ無いのか?」

 「何か恨みでもあるのか?」

 「俺達幾ら金使ったと思ってるんだよ!返せよ金!」

 「冬期運行が実現したなら君だって何十万か儲けられたんだぜ!」

 狂っている。そうとしか思えなかった。

 追撃はこれだけでは無かった。冬季運行に関わった鉄文協の元幹部が日本トレインクラブのメンバーに

 「最近、吉野君は可笑しいよ、彼は純粋過ぎる・・・それは危険ですよ。彼が居ない方が自由でしょ?」

 平成4(1992)年3月29日、団体専用臨時列車の輸送で不在の北海道鉄道研究会事務所に数人が集まって、それは実行された。

 日本トレインクラブ・北海道鉄道研究会の「本能寺」であった。

 吉野は遺書を書いた。15歳で父は亡くなっているので、悲しむのは母だけで幾分気が楽だった。とにかくも皆を怨んだし、呪った。全てに裏切られ、生きている事が痛い程辛かった。不良学生相手に喧嘩を吹っかけてみたり、無意識なのに夜中に街中を歩き回ったり、駅のホームのベンチに始発から最終迄座っていたり・・・奇行は自分でも恐ろしくなる程狂気に満ちたものだった。その辺りの記憶は現在もスッポリと抜けている。自身でも自己が制御出来無い状態で、正気のある時に遺書を書いて置かないと、恐かった。しかしそんなものを書くと不思議と死ぬ気にならないもので、恐いものが無くなった・・・しかし、本当に悪いのは誰で、何だったのか、それが冷静に人に語れる迄には十年の時間が必要だった。それ程の衝撃だった。馬鹿が馬鹿になれ無いと言う不幸程、不憫な事は無かった。が・・・何度も書くが彼は真髄からの馬鹿なのだ、馬鹿は無知でも不知恩でも出来ない。それは愚者と言うのである。

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