吉野は肌を差す日射しの中で黒く輝く蒸気機関車を見ていた。

 ブゥォーッ!

 C622機は品川駅10番ホームで汽笛を轟かせた。蒸気圧は16キロには至らず多少掠れては居たが、C62の汽笛だった。

 平成11(1999)年8月1日正午、イベント会場となった品川駅第5ホームには多くの家族連れや報道陣が見守っていた。

 前年の平成10(1997)年4月8日、彼は札幌・苗穂工場でC623機に再会していた。既に廃車となっていたものの、C623機は苗穂工場で丁寧な保存管理を為されていた。

 PHOENIX(不死鳥)と題したC623機復活の構想を青年文化連盟としてまとめ出したのはその後の5月3日だった。ボイラーを始めとして、C623機は復籍・復活の可能なベターな環境にあった。一応のスケッチがまとまった段階で、再度企画の検証作業を進めて行くうちに、この計画が昭和62(1987)年3月11日に渡部・工藤達に示した構想と重なっている事に彼は気がついた。

 C623機復活の最終目的・・・それはC62の重連だったのである。考えてみれば、当初14系だった客車は在来型一般車となっていたし、カフェカーも連結されていた。組織形態も財団法人(公益法人)だったし、その後C623機の周囲が工藤・渡部・宮本と語ったC623機プランと多くの点で重なっていた。

 昭和62年夏に鉄道輸送警備隊の愛唱歌が作られ、その一節に

 「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」

 とある。

 吉野はその心を忘れた時、皆に伝える事を億劫と思った時、鉄文協も日本トレインクラブも崩壊を始めた、と語る。


 現在、小樽市は道内でも屈指の観光都市となり、和田氏達日本国有鉄道小樽築港機関区企画室が構想した「リゾートタウン・ぬくもりの街」はかなりスタイルもボリュームもクリエイティブもダウンしては居るものの、小樽の新しい中心地として毎日多くの観光客や市民が訪れておりますし、またJR北海道もC623機以降暫く蒸気機関車が無かったのですが、C11191機に続いてC11207機の2両の蒸気機関車を復元し、毎年函館本線にはSL列車が運転され続けている。

 その後渡部敬吉氏はJR北海道を辞めて、「小樽時代」の経営に専念、オーナーシェフとして腕を振るっている。不況で経営は危機的だったが、C623機とは違い奇跡的に存続させている。

 工藤竜男氏は企画コーディネーターとして復帰したが、鉄道には二度と関わることは無かった。

 松田昌士氏はJR東日本常務から社長、現在会長の職にある。

 山之内秀一郎氏はJR東日本副社長から社長、会長を歴任し、「新幹線生みの親」元国鉄技師長・島秀雄氏の後を継ぎ、宇宙開発事業団理事長の職にある。

 弓削馨氏はJR九州で蒸気機関車58654機復活に関わり、現在もJR九州の第一線で活躍している。

 横山氏は横浜市に転居して不動産とビジネスサポートの会社を興した。

 真船直樹氏は医療関係の仕事の傍ら、JR北海道の鉄道史・鉄道研究の指南役として活躍している。

 宮本洋氏は札幌の広告代理店の制作部長として現在も鉄道に関わっている。

 竹島紀元氏も意気軒昴、記録映画の制作や鉄道ジャーナル社の編集長として指揮を執り続けている。

 山下仁郎氏も小樽市でお元気である。

 一方、冬季委員会のメンバー達や在道ボランティア達の一部、旧トレインクラブ「革命派」達は健在だがその後は波瀾の人生を送ってしまった様である。

 吉野に電話を掛けた職場の先輩は未だ40の若さで急逝した。また彼の協力者で調査の第一線で活躍した友人もC623機最終運行の直後に事故で亡くなっている。その他彼がC623機を縁にして出会った十数人が既に逝去されている。

 人の生き死にを重ねて行くと、「夢」は「使命」にしかならなくなる。

 それが理解される分、彼の罪は増々重いものになって行く。


 吉野達は平成14(2002)年6月28日、特定非営利活動法人交通文化連盟を設立し、本格的に市民運動として「地域活性化主眼の交通文化財保存活用の具体化」を始めた。

 C623機は札幌で眠りに付いている。

 しかし、確実に自分が必要とし、自分を必要とする人間を呼び寄せ続けている。

 かつて、必死の思いで無私の挑戦をした男達が不可能を可能にした。秋に戻る冬は無い。冬が必ず春となる限り、C623機は訴え続け、生き続ける。

 「我、今是処に再び甦らん、故に夢を信ずる人速やかに集わらんや」

 そして、現在その名も「不死鳥」のPHOENIX構想は企画構築の本格的作業に入っている。


 実はこの他にも幾多の方がこのプロジェクトに大きく関わり、「不可欠な人間」となっております。しかし、「鉄文協C62計画」がどんなもので、何故破綻したのか、その真実の目的は何なのか・・・それをこれでも簡略にし、御理解と洞察を呼び掛けるものとして書かせて頂きましたので、多くのエピソードを割愛しております。御高察の上御理解下さい。

 また、小樽築港機関区の神々やこの実現に邁進し勇猛精進された先達達から汲み取った時、「地域主眼の交通文化財の保存活用の具体化とその永続」となり、その行動の基礎は「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」の精神にあると結論され、それが交通文化連盟の原点となっている事も敢えて末に明記させて頂きます。

 交通文化連盟の「老いたる同志」は全ての交通人と要約されますが、吉野の「老いたる同志」はC623機で出会った国鉄関係者を始めとする多くの将である、と言えます。その栄光と感動、そして背任と敗北・挫折があるが故に、交通文化連盟は「馬鹿の中の馬鹿」を栄誉として進んで行けるのです。

 「今度は着実に、時間が掛かっても着実に一歩一歩を構築しなければなりません。C623機は確実にそして永久的に後志を全国を走将として走り続けさせなければ、私の生きている意味も、先輩達の情熱の価値も失われてしまいます。時代はむしろその夢に向かって静かにゆっくりと流れつつあります。だから焦る事も威張る事も不要です。しかし、その精神は確実に継承し、後継する必要があります。それが、その相承を受けた馬鹿の誇りですから。」


 あの屈辱と挫折の日から十年が過ぎた。

 吉野は幾度も死する事より残酷な瞬間を味わったが、あの11月3日より辛い日は・・・屈辱と挫折と後悔に押し潰された日などなかった、と言う。

 しかし、吉野は死ねなかった。生き恥をさらし続けていた。

 笑い者になっている自分に気付いた時、それでも過去の栄光にしがみついて「威張りたい」小さい自分が見えたと言う。

 「一番下手な、遠回りなC623機への軌道」を選んで、彼はこう笑った。

 「ネットで捜しまわって、C623機に関する情報を確認したものの、結局C623機復活に関する著述で真実を語っているものなど皆無である事、更に鉄文協の崩壊を語っているものの無い事を知りました。それでも遠慮も見栄も有り、沈黙しましたが、この十年目にかの工藤竜男氏御子息から御連絡を受けて、電話で話した時に心から言えたのですね、貴殿のお父上は偉大な行動をし、最大最速最美の蒸気機関車・C623機の奇跡の復活を実現したのだ、と。まがりなりにも、その子息として威張って良いんですよ・・・って。十年経って大恩人で最も信頼し、裏切られた方の御子息に、未だC623機への挑戦の旗は降ろしていないとはっきり言えた、いや言わせてくれたのです。諸天善神の加護とはこの事で、自分がその軌道に間違い無く立っている事を認識したのです・・・馬鹿にもプライドがありまして、それは忘れる事がありません、どこまでも宣戦布告の自身があるだけです。」

 一方で後継者や精神の継承者についての危倶はある、とも言う。

 それでも、彼は「生き恥を曝し続けて」軌道を築き続けて行くと言った。


 文責・岩崎義将、文中敬称略

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