昭和62(1987)年4月1日、任意団体・北海道鉄道文化協議会が発足し、SL復活の会はその役割を終えて発展的解消を遂げ、本格的にC623機運行に向けて全体は動き始めた。組織は工藤を専務理事兼任事務局長とし、会長には勇断でC623機の危機を救った中澤信行が、また副会長には上島珈琲の上島達司社長、ハドソンの工藤祐司社長等が名を列ね、竹島紀元・鉄道ジャーナル社長も顧問となった。

 その日、小樽市内花園町「魚真」でC623機復活のOB達を招いて慰労会が行われた。山下仁郎を始めとする「神々」が一同に会した。代表して山下が言葉を述べた。

 「こんな短い間に、あの状態のロクニをちゃんと走らせられるものにしたんだ!俺達の技量は確かだ、腐っても鯛だ!何処へ行ってもうーんと威張ってやれ!」

 母なる城であり国であった「日本国有鉄道」と「小樽築港機関区」を失った後輩達を精一杯激励した言葉に、一同は泣いた。

 4月2日、渡部も日本国有鉄道小樽運転区から更に改称したJR北海道小樽運転所から札幌運転所へ転勤となった。栄転とも左遷とも見えるが、確かに「小樽築港機関区」の地に現場が残った事を良し、として転勤に応じたのである。扇形庫ではC623機が苗穂工場への移送準備に追われていた。


 吉野はこの日、市内を歩いて先祖と先達の供養をした。地獄坂から見る街は晴れていたが未だ雪は残っていた。実はあの後・・・4月1日の午前1時、C623機復活イベントが終わり、扇形庫29番に戻ったC623機を前に、彼は仲間達と無言のままC623機を見つめていた。未だ5〜60人のファンがカメラを構えていて、扇形庫の扉は開けられていたのだ。

 不可能が可能となった瞬間を確かめて、5年間の自分を振り返った時に上野駅学生臨時雇用員の仲間達は各々鉄道会社に散っていた。戻る国鉄は無く、仕事はあったものの虚脱感を味わっていた。

 職員が扇形庫の扉を閉めた、その瞬間彼はその場に居合わせたファンに突然大声で語りかけた。

 「皆さん、C62は国鉄マンが、一介の国鉄職員達が国鉄人としての誇りと、そこに生きて来た証し、そしてこの街に仲間達が一人でも多く残れる為にと始めたものです。本来はこの扇形庫の保存が目的だったのです・・・」

 無意識のうちに自分が見聞きしたC623機復活の物語を語っていたのである。殆ど全員がその場に動かず聞いていた。扉を閉めに来た職員も聞いていた・・・その日は徹夜で仲間達やその場で知り合った数人と語り合い、朝を迎えた。

 その寝不足からか、一往工藤の事務所や「小樽時代」に挨拶には行ったが記憶が殆ど無い程で、気がつけばホテルのベッドで2日の朝を迎えていたのである。


 4月7日に小樽運転所から苗穂工場に移送されたC623機は本格的復元工事に入った。北海道鉄道文化協議会・・・実質は工藤一人だったがJR北海道やスポンサーの間を駆け回り、運行の準備を進めていた。しかし、その過程で既に後年の破綻の種は確実に植えられていたのである。工藤も他のメンバーも、JR北海道自体も気がつかないままに・・・

 4月30日にJR北海道と北海道鉄道文化協議会事務局長は「蒸気機関車C623号機の復元運転に係わる覚書」「覚書に対するメモ」を締結した。これは知らない者なら単なる覚書なのだが、この中にC62列車の精算に関する事項があり、要約すると「客車は5両でうち1両は上島珈琲が改造費と運営を受け持つカフェカーとして、残り4両のうち3両を北海道鉄道文化協議会が、1両をJR北海道が販売し、原則として320席×往復の小樽〜倶知安間大人普通旅客運賃+指定席料金を北海道鉄道文化協議会が買い上げるものとして残額を精算する」と言う内容だった。

 つまり、JR北海道は全便満席全区間分の大人運賃・料金を保証される、と言うもので、割引は別途在ったものの団体専用臨時列車では無く「貸切列車」のスタイルだった。団体専用臨時列車と貸切列車は違うのである。本来は機関車と客車に関わる検査修繕費用と燃料・水の料金=運行経費を全額負担させているのであるから、日々の列車は座席の9割以下で20〜40%の割引とした費用でも鉄道会社は「儲け」が出る。むしろオレンジカード等の販売やその誘客による関連のきっぷの販売等も考慮すれば2両でも充分な筈だし、JR北海道が販売する1両80席分は最初から差し引くものである。工藤は鉄文協の事務局長として、また企画マンとしては知識が豊富だったが、鉄道の運賃や旅客営業システムは全く無知だった。同時に窓口は「運輸部」「運転車両部」で、「営業」の専門では無い。「貸切」と「団体専用」の区別が付かなかったのであろう。さも無くば無知を良い事に「一儲け」を企んだ、としか言えなくなるのである。

 蒸気機関車の復元費用はC623機とその他の蒸気機関車では差異がある。それはC623機が巨大だからでは無い。自動給炭器の有無がその差の種なのだが、その他の運行経費(ランニングコスト)は使用する燃費に差がある程度で実は余り変わらない。勿論専門的技術はどの機関車にも独特のものがあるので「特にC623機は大変」とは言い難く、またC623機破綻の原因を「巨体故にランニングコストがこれまた巨額になり続けられなくなった」だけとするのは誤りである。


 10月26日、北海道旅客鉄道大森社長名で運輸大臣にC623機の車籍復帰申請がされ、翌年3月31日にこの許可は降りるものとなったが、苗穂工場にも「神々」が輝いていた。

 鈴木一雄は熟練の蒸気機関車「修繕工事」の神様、だった。翌年2月に落成を控えて作業は急ピッチだったが、神様の仕事は鮮やかだった。その鈴木が12月に急逝した。国鉄退職後も札幌交通機械株式会社(下請会社)に移り、現場に生き続け、蒸気機関車のチーフドクターとして現場に逝った、鉄道人だった。

 C623機に向かう彼は活き活きとしていた、と言う。C623機の復活には誰一人として「余計な人間」は皆無だった。誰一人として「不可欠」だった。


 昭和63(1988)年3月3日。札幌・苗穂のJR北海道苗穂工場ではセレモニーの後、C623機の落成・構内試運転が行われた。

 工藤ハドソン・上島UCC・中澤会長とVIPが見守る中、144.94tは見事に粉雪舞う中を力走した。

 4月25日からは小樽〜倶知安間で試運転が開始され(28日まで)、28日には北海道鉄道研究会鉄道輸送警備隊の派遣部隊と共に吉野達が小樽に乗込んで来た。

 4月29日、薄曇りに小雨も混ざり寒い春の朝だった。渡部宅に吉野は居た。既にC623機は鉄文協の事業として彼の手から離れていた、そう渡部は思っていた。そう思わなければ居られなかった。

 「俊ちゃん、俺乗らないよ、店の手伝いも有るし・・・」

 夫人は乗って欲しいと思っていた、2人の子供達も行きたいと言っていた・・・

 「きっと後悔するよ、あんなに一生懸命だったんだから、誰より最初に乗りたいのサ、上手く連れて行って・・・」

 夫人も渡部の悲喜を知っていたし、亭主の夢を見守っていたのだ。「不可能を可能とした」男達の背中を、それぞれの女達が押していた。

 じゃあ、出発式だけでも・・・と言う事で渡部の車で小樽運転所へ向かった。

 工藤や機関士の菊池達が渡部を待っていた。誰よりC623機が彼を待っていた。


 小樽駅2番ホームは華やいだ雰囲気だった。ホームに入線した臨客第9162列車「快速C62ニセコ」は在来型一般車5両で、青の車体は湯気を纏っていた。吉野は最後尾で鉄道ジャーナル社のカメラマンや宮本と談笑し、他の鉄道輸送警備隊スタッフはデッキに立っていた。竹島社長の姿も見えるが、やはりカメラを手に興奮した面持ちの様だった。工藤は写真を抱えていた。急逝した鈴木一雄の遺影だった。

 ベルが鳴り、デッキ閉扉の合図が出た。バタン!バタン!と扉を閉める音がする。

 ブォーッ!

 長い汽笛が轟いた。9時51分30秒、列車は柔らかくホームを滑り出した。走将はやはり列車を牽引して駆ける姿が似合う。機関士は小樽築港機関区出身の「C62の盟友」である。船見坂の陸橋も煙に隠れてしまった。

 吉野は緊張していた。初日から事故、なんて許されない、それだけが脳裏にあって、「楽しい汽車の旅」なんて気分にはならなかった。

 最後尾に無線機を抱えた男が居た。軽く会釈して、客席に戻ると宮本と渡部をカフェカーに誘った。ただ扉警が気になったので余市を出てから・・・と言った。

 最後尾の男は医師の真船直樹だった。アメリカ留学から帰国早々だったが、仲間達に声を掛けて沿線警備を買って出たものだった。

 30秒停車の後、余市を出た第9162列車は後志の山懐奥に向かって居た。デッキから外を伺うと鈴生りの鉄道マニアの群れがそこここに見えたが、多くが手を振っていた。

 そんな中、畑の真ん中で老婆が体まで揺らして右手を大きく振っていた。それを見た瞬間、吉野は突然、嗚咽した。蒸気機関車は鉄道会社のものだけでも、鉄道マニアだけのものでも無い、その土地に暮らす人やそこに訪れた人全部にとって笑顔をもたらすもので無ければエゴにしかならないのではないか?そんな疑念が心の奥底にあった。しかし、農夫の姿は自然だった。そこには懐かしさを感じさせる笑顔が見えた。早い春に老梅を見る様だった。

 「間違って無かった・・・」

 馬鹿は馬鹿なりに「馬鹿の理由」を探していた。その答がそこに有った。


 15時45分30秒、定時に小樽駅に戻って来た快速C62ニセコ・臨客第9163列車を降りると関係者は運河沿いにオープンしたばかりの「運河工芸館」に案内された。この施設に北海道鉄道文化協議会の本部事務局は移転していた。

 関係者によるパーティーは16時30分にスタートしていた。到着早々に工藤は吉野に書類を持って来て欲しいと頼み、彼は一人旧事務所まで往復した。

 相変わらずの曇りだったが、暖かい潮風が吹いていた。実感としての喜びが沸々と湧いて来るのを感じた。

 酒の飲めない渡部は一通り挨拶して回ると、戻って来た吉野に先に店に戻るよと言い残して子供達を連れて早々に退席した。吉野達は会場の片隅で一人一人の顔を見ていた。

 まさに桜梅桃李だった。誰も同じ華など咲かせていなかった。


 小樽駅近くのビジネスホテル・グリーンホテルはすっかり定宿になっていたが、宿に戻りシャワーを浴びて駅を通ると知った顔の鉄道マニアに出会った。彼等もまた桜の様に頬を紅潮させて興奮していた。

 しかし、そんな会話の中で早速試運転時から沿線では鉄道マニア同士や無理な駐車によるトラブルの話も出た。人身事故だけ無い様に・・・その為に鉄道輸送警備隊は東京から出て来ているのである。真船達が無線機まで持って沿線警備をしていたのに、である。

 初日に既に後年の破綻、更に後日の内紛は予兆を見せていた。勿論その時は想像など出来なかった。

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