穏やかに晴れていた。

 昭和61(1986)年10月6日11時25分、「臨配第9220列車」DD1630機の汽笛は柔らかく手宮にこだました。

 近くの幼稚園の子供達が見送りに来ていた。渡部は子供達と言葉を交わした。

 「おじさん、あのSL走るの?乗りたいよ〜」

 「きっとね、走るよ・・・」

 涙で言葉は続かなかった。

 DD1630機の後ろにC623機、そして車掌車ヨ6146の3両編成の列車は時速15キロでゆっくりと手宮線のレールを走り、12時過ぎに扇形庫29番線(修繕線)に到着した。

 200万円を掛けて手宮線を復線し、この時期にC623機を移送したのには訳があった。街を二分した論争の種だった小樽運河の半分埋め立て・・・国道5号バイパスの工事が完了し、小樽市が観光都市へ脱皮する過程で南小樽駅西の通りに掛かる手宮線鉄橋が低く、観光バスの通行が出来ずに小樽市は再三、国鉄にこの鉄橋の撤去を求めていた。現在の寿司屋通りである。鉄橋を撤去すればC623機の移送は困難になる・・・更に市も当初はC623機復活には懐疑的て記念館のシンボル的機関車の持ち出しには難色を示したのである。工藤が助役に直訴する騒動にもなったが、ここでかの「32両交換条約」が大きく作用した。しかし、実は「C623機」は持ち出しであり、本線運転が終了した際には再び手宮に返却するものとなったのである。これも一因してその後永く手宮線はそのまま「放置」されてしまったのである。

 扇形庫に入ったC623機に早速、人活センター・・・否「蒸活」(蒸気機関車復活チーム)と検査長・高間良男や高橋邦利らの検修の技師達がC623機に取りついて、分解を始めた。嬉々としている姿を見ていた工藤は、しかし未解決の問題の山積に心から安堵は出来なかった。


 10月中旬に道総局から復活の会に提示された本線営業状態への復元費用は1億3271万5千円だった。当初3千万からスタートし、7千万円で内々に妥結していた費用が急遽倍額となり、費用は遂に4倍になった。工藤は激怒したが、国鉄道総局としても初の体験である、要領の得ない作業は時に、こんな人を馬鹿にした様な結果をもたらしてしまうものである。それと同時に31日迄にその支払保証書を提出して欲しいと言うのである。工藤の顔を見ていた横山も心苦しい限りだったろうが、ここまで来ると明確にC623機復活への「抵抗勢力」の存在が見える。

 上島珈琲とて拠出を内諾したものの、1億3千万円は社長単独で即座に左右出来る額では無い・・・しかし、工藤は途方に暮れる間も無かった。ここで諦めたらあの小樽築港機関区の職員達、既に職場を去り夢を託した和田達に死んで詫びても許されない裏切りをしてしまう・・・しかし諸天善神はこの夢を加護した。工藤達と面識があって、兼ねてからC623機復活の理解者だった、市内で漁網会社を経営する中澤漁網社長・中澤信行がその保証人を買って出たのであった。

 企画自体は既に完成の状態だったのだが、前人未到の作業である。何処に障壁は待ち構えているか未知なのである。

 それまでは一往規定や職務分掌ぎりぎりでC623機復活を支えた運転車両部長・横山が処分覚悟の大英断を下したのはそのすぐ後だった。

 11月7日、菊池忠や伏見勉・宮崎道教の小樽築港機関区3名と高橋稔・梅木嘉夫の岩見沢機関区の2名の計5名に18日から24日まで「広島鉄道管理局小郡機関区出張」の辞令が出たのである。鉄道車両の運転にも免許(動力車操縦免許)が必要で、蒸気機関車ならばそれに2級以上のボイラー技師の免許も必要である。V免=ボイラー免許の更新は小樽でも出来るが、動力車操縦免許は「実技経験」が問われる。北海道に蒸気機関車はなかったので、国鉄唯一の蒸気機関車運転基地・小郡に行かせる必要があったのである。

 何が大英断かと言えば、構内での展示運転だけならば動力車免許は省略する事も出来る。この時点ではC623機の復元は契約されたが、「列車運行」の契約は未だ成されていなかったし、素案すら無かったのである。つまり横山は今後の本線運転を見据えて「予防策」を講じたのである。

 更にボイラーの合格証明の再発行や札幌労働基準監督署のボイラー検査、各実施に向けた問題の解決・・・とクリアしなければならないポイントは無数だった。

 だが、労働基準監督署の検査官の様に

 「前向き、前向きにやりましょう。私の父も国鉄で機関士してましてね、蒸気機関車の復活は嬉しい事なんです。」

 と、協力者も無数に現れたのだ。


 昭和61(1986)年11月30日で国鉄上野駅の案内所が民間企業の委託から解除され、職を失うことになった吉野は、友人と個人営業の鉄道模型加工販売を始めた。その吉野の元に工藤・渡部から来樽の声が掛り、彼が夜汽車で上野を出たのは、昭和62(1987)年1月8日だった。

 1月10日、札幌・京王プラザホテルで工藤・宮本・渡部の3氏と面会し、早速小樽の渡部氏夫人経営のレストラン「小樽時代」に着いた時にはすっかり日が暮れて、雪の中に夜景が揺れてそれは綺麗なものだった。

 吉野は運行に際する防災の重要性と、客車が持つ重要性を力説した。彼も5年間追い掛け続けた夢である、必死だった。明確な反応は無かったが、翌日小樽築港機関区扇形庫29番でC623機と再会した時、渡部は「レトロ客車が確かに似合うな」とつぶやいた。その翌月、復活の会は北海道鉄道文化協議会と言う事業主体の任意団体を設置し、C623機計画はその団体で行う事を決め、同時に国鉄道総局と運行等に関し合意した。


 2月12日、東京の国鉄本社での幹部会議の席上、須田晋常務理事・旅客局長と山之内常務理事・運転局長から大森道総局長が異例の要請を受けた。

 2月15日、道総局=北海道旅客鉄道がC623機復活に協力・推進の体制に変わったのを安堵しながら、横山は国鉄を退職し神奈川県横浜市に転居した。やるべき事はやった・・・そんな心境だったと言う

 3月5日、1月5日から予算102万1500円を掛けて行われた復元調査は完了し、9日には札幌労働基準監督署は条件付でC623機ボイラー検査の合格を出した。この間3月1日には小樽築港機関区は「小樽運転区」に改称している。「機関区」はJR貨物の運転基地の名で、旅客会社では「運転所・運転区・電車区・客車区」を使うものとされた措置だった。


 3月13日の朝である。

 山下が何時もの様に札幌の道総局のボイラー室に仕事に出ると、上司が

 「山下さん、明日から小樽築港機関区へ行って貰うよ。」

 見ると勤務表に線が引かれて(築機出張)となっていた。有無も無く、である。

 この日メディアは一斉に「国鉄最後の瞬間にC623機の復活」と報道していた。それは山下も知ってはいたがまさか自分がその役回りを取るとは想像もしていなかった様である。

 翌日、小樽運転区扇形庫に行くと懐かしいOB達が待っていた。期限は2週間でC623機を自力走行状態に復元して運転調整をする事が仕事だった。

 で、C623機を見て一同は顎然となった。それ迄機関区で分解した事も無い程、分解されて居たからである。既にSL復活チームも転任や退職で半数以下になっていた。報道発表したからには、何がなんでもやらなければ・・・不安な程の状態だったが、やはり「カミ様」は違う、扇形庫に神はカミでも「シベリアオオカミ」の雄叫びが響いた。

 神々の意地は単なる意地では無かった。時々は分厚いノートを捲りながらではあったが、大抵の数値は記憶の中に眠っていたのである。

 「その隙間、コンマ5(0.5ミリ)だべぇ?」

 「いや、3号機は4で行けたで」

 老人だなんて決して侮蔑できなかった。

 27日に火入れ(点火)をし、29日工藤達立ち会いのもとに構内で試験運行が行われる事になった。

 それまでとは熱気が違っていた。湯気が立ち篭めて、呼吸が感じられた。C623機は確実に呼吸していた。生きていた。


 3月31日午前6時00分の東北新幹線に飛び乗って、吉野達北海道鉄道研究会の派遣チームは生き生きとしていた。青函連絡船も快適だった。「国鉄謝恩きっぷ」での旅行なのか、とにかく何処も満員・満席だった。

 札幌駅で小樽運転区直行の臨時列車・金色のディーゼルカー「アルファコンチネンタルエクスプレス」に乗換え、22時過ぎに列車は仮設ホームに到着した。

 扉が開くと吹雪の構内は蒸気と石炭の香り、そして熱気に満ちていた。既に22時から構内を運転展示していたが、丁度折返しに入る所だった。

 ボーッ!

 仮設ホームに足を掛けた瞬間、腹の底を揺さぶる衝撃が全身を貫いた。そこには、間違い無く、本当に、144.95tの巨体が蒸気を吹出して走る姿があった。

 22歳の吉野は、涙で何もかも全てが霞んだ。渡部が吉野を見つけて、駆け寄った。

 「何だ、泣くんでねぇ、みっともねぇなぁ・・」

 と言う渡部も泣いていた。

 夢は現実になった。不可能は可能になった。

 零下の吹雪の中で、確実に冬が春となった瞬間を吉野は見た。

 ボーッ!

 走将・C623機は甦った。

 その汽笛は不可能を可能にした人間勝利を宣言する、走将の獅子吼だった。

 昭和62(1987)年3月31日23時59分。

 会場に螢の光が流れた。日本国有鉄道の幕を閉じる惜別の歌である。

 彼は独り電気機関車庫の方に歩いた。誰にも眼に付かない所へ・・・そして、号泣した。もう二度と戻れない母なる日本国有鉄道、そしてC623機の復活にただ無心だった5年間・・・そして今、夢は現実になった。複雑な思いを大声で泣いて掻き捨てようとした。

 吹雪は優しく彼の涙と叫びを包んで隠した。

 4月1日午前0時00分、一際永い汽笛が響いた。JRの誕生の祝福などでは無かった。確かに全ての国鉄人への鎮魂とその誇りの確かな事を叫ぶ走将・C623機の獅子吼以外の何ものにも聞こえなかった。

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