昭和60(1985)年3月、それ迄大宮までの暫定的運転だった東北新幹線と上越新幹線が上野駅へ乗り入れを果たし、実質「東と北の新幹線」は本格的に開業した。そんな栄光の新聞記事を横目に、国鉄本社から一人転任した人物が居た。日本国有鉄道経営計画室筆頭主幹・松田昌士である。葛西敬之等と共に国鉄改革派のメインメンバーだった人物で、本来国鉄改革(分割民営化)の為に西武建設社長から呼ばれた第9代国鉄総裁仁杉巌に分割民営化反対派が巻き返しをし、その「制裁人事」として実質左遷されたものだった。本社の本部参謀級人物が国鉄北海道総局副総局長では、左遷と言わざるを得ない。

 北海道大学法学部出身の松田は国鉄人でも内勤事務畑を歩いて来た。そんな経歴に渡部は親近感を覚えたと言うが、妙縁と言うかその4月15日に小樽築港機関区に「企画室」が発足、和田達4人は「SL復活プロジェクト」としてC623機復活が専任となった。国鉄改革と人員合理化の嵐が吹き荒れ、全国で「肩叩き」「牢獄」と言われた悪名高い「人材活用センター」が設置され出した頃である。


 この企画室は区長が独断で決めたものである。前年3月に小樽築港機関区区長に赴任して来た九州男児の弓削馨は冷静な頭脳と義理と人情に厚い「将の将たる」人物だった。

 「私は、小樽築港機関区の最後の区長にはならない!」

 この区長なら!と和田達は信頼したと言う。その弓削は彼等の構想を聞き、感動した。職場は荒れて何処も新会社への残留の可否で誰もが不安だった、そんな中で自分達の城を護る為に立ち上がった4人の情熱を大切にしたいと思っていた。そんな中、和田達は語った。

 「何も俺達は新会社に残りたくてやってるんで無いんだ、この築港機関区が残れば、仲間達が残れば、それだけだわ。」

 弓削は決断した。但しやはり巨額の資金を必要とし、未経験な「観光施設」を始めるには、機関区や道総局運転部だけではどうにもならない。道総局自体の流れを変えなければならない・・・その糸口として、先ず機関区の守備範囲である蒸気機関車復活から着手すると言う方法を取ったのである。

 10日後の4月25日、企画室は「SL復元調査案」を完成させた。

 その傍らで和田は「生きる道・地域重点輸送と新市街」提案を構想し、まとめていた。これに「442倶楽部」の工藤も応援を申出、企画室には国鉄職員のみならず、様々な人物が出入りし、まさに「城」の様相を呈していた。

 小樽築港駅の南の丘を上がった住宅地「桜」に渡部の車は停車した。川沿いの一軒の家に入ると人なつこい婦人が顔を出した。そしてその後直ぐに小柄な眼の澄んだ老人が出て来た・・・山下仁郎だった。

 「山下さん、ロクニを見て呉れませんか?」

 5月4日、晴れて暖かい日だった。手宮の北海道鉄道記念館には作業着姿の山下と、渡部達の姿があった。普段は人なつこい好々爺の山下が検査ハンマーを手にC623機に取り付くと、優しい眼は鋭い輝く眼に変わった。そこには「SLの神様」と言われた検査長・山下仁郎が居た。そこに市内の鉄工所「大川鉄工所」の大川専務も在姿点検に加わった。以前蒸気機関車製造メーカーとして名を馳せた「汽車会社」で蒸気機関車の製作に関わっていた技術者だった。

 5月15日には消防車と内燃機関車DD1630機を用意して水圧試験を、23日にはDE101733機で回送時の制動装置試験を行った。結果は良好だった。企画室は復元展示(構内でのみ自力走行し、旅客列車は牽引しない)の工事費用を835013円と見積った。


 C623機は小樽築港機関区に赴任した最初のC62であり、最後迄ここに生きたC62である。そしてC62は国鉄を代表する蒸気機関車である。国鉄人としての誇り、小樽築港機関区人としての誇り、そしてここに生きて来た証しとしてC623機を後世に走れる状態で引継ぐ・・・新会社に残れなくても、肉体が滅んでも、その技術と精神は残って行く・・・理由は様々でも、思いは一つに重なった。6月3日、企画室は「C623復元活用構想」をまとめて弓削に提出した。

 しかし、分割民営化が実質的に進捗し、国鉄改革止むなしの世論の高まりの中で虚脱感は小樽築港機関区だけで無く、国鉄全体に蔓延していた。

 「そんなものに資金は出せない。新会社になったら、北海道が一番苦しくなるんだぞ。」

 道総局の回答は虚脱感に溢れていた。


 6月24日、仁杉総裁は更迭され、前運輸政務次官・杉浦喬也が国鉄第十代総裁に就任し、国鉄分割民営化は俄然現実味を帯びて来た。

 そんな矢先、松田昌士副総局長が道内の経済雑誌に国鉄職員への企業人意識を促す文が掲載されたのを渡部は読んだ。衝撃だった。

 「和田さん、俺どうせ残れないなら、直訴しようと思うんだが・・・」

 一職員が副総局長を見上げた時、それは雲の上の人、殿様を足軽が見上げた様なものである。普通なら会見自体叶わないし、その中間の「偉い人」達の顔が潰れてしまう。その後の「報復」も考えられる事だった。しかし、渡部の決意は固かった。和田も同様だった。

 7月上旬、和田と渡部は「小樽鉄道硝子」プランを持って札幌の北海道総局に向かった。その日は不在で会見は叶わなかった。

 渡部は帰宅すると妻と小学校に入り立ての長男、幼稚園の次男の寝顔を眺めた。もしもこれでクビになったら・・・済まない気持ちになったが、不思議と確信があったと言う。

 後日、松田から会見を受け入れる鉄道電話が企画室に入った。彼等は国鉄職員と言うより、情熱を持った「サムライ」として札幌の道総局に乗込んだ。

 「成程な・・・小樽築港機関区の隣には広大なヤード(貨物操車場)の跡地がある。それらも含めて考えてみたらどうだろう・・・」

 切れ物・松田の視点は既に小樽築港機関区では無く、分割民営化以降と今後の小樽を確かに見据えて居た。

 10月、和田は「生きる道・地域重点輸送と新市街」提案と鉄道硝子プランを再構築した「リゾートタウン・ぬくもりの街」構想をまとめた。築港鉄道敷地エリアを「衣食住遊」共有の一つの「街」にする、と言う壮大なものだった。小樽築港駅の改札から雪雨に隔たれずにショッピングセンター・映画館・レストランモールを経て、扇形庫の「硝子工房」に、そして居住空間へと直結し、札幌まで快速列車で30分と言う立地から観光客と通勤客を誘引する、単なる観光施設では無い、まさに「街」を作ると言うものだった。

 しかし、秋風は男達に冷たかった。分割民営化の本格化に伴って、弓削が九州総局に転任し、松田も国鉄本社常務理事として東京へ帰る事となった。新任の区長は企画室に冷たかった。自分が在任中は余計な事をするな・・・保身から出た廃退的人物と見えた。しかし無理からぬものである。国鉄30万が全体として疑心暗鬼なのである。

 無理解な区長、松田の転任・・・企画室は孤立した。

・・・正確には、孤立して見えたのであった。

 東京の空の下で、あの扇形庫とそこに群れを成すC62やD51を思い浮かべながら、電話のダイヤルを回す一人の紳士が居た。

 静かに、C623機と男達の蘇生は始まっていた。

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