昭和59(1984)年夏、小樽築港機関区に隣接した旧小樽貨物操車場跡地で「小樽博」が開催され、臨時ホームに札幌や小樽からの観覧客が押し寄せた。この時に小樽築港機関区は600万円の増収を記録した。

 機関区等の運転・技術現場は御客様と接する職場では無いので、なかなか増収活動などは出来ないが、この成功で和田はかなりの自信を得た。この頃同僚の渡部敬吉に「プラン」を打ち明けたのである。

 これから、国鉄は分割民営化しようがしまいが、どの道もっとビジネスライクな経営を必要とされるだろう、ならば巨額投資で一点集中の儲けでは続かない、今手許にあるもので新しいビジネスを創らないといけない。そんな意図だったのだろう、和田を中心とした「開発グループ」は退勤後や休日を返上して街に出た。小樽の観光についての調査をしていたのである。

 この頃、小樽は街を二分する論争が巻き起こっていた。運河を埋め立てて国道5号線のバイパスを作ろうと言う話が論争の種である。

 「小樽のシンボルを失っても良いのか」

 「時代に取り残されるぞ、寂れた街で生きて行けるのか」

 小樽はその街に生活している事に一種独特のプライドを持つ人が集まった街である。頑固と言うか、とにかく「小樽人」と言う台詞が生き続けている街である。自分達は「日本人」の前に「小樽人」と言う。

 その小樽人のシンボルが運河である。それは賛否両論激しくもなろうが、共通しているのは真剣に小樽のこれからを考えている、と言う事である。

 和田が取り纏めたプランは、まさにそんな喧噪を耳にして練り続けたものだった。

 「小樽鉄道硝子」

 そんなタイトルが付いていた。


 昭和55(1980)年10月、千歳線・室蘭本線の通称「海線」の札幌〜室蘭間が複線・電化されてダイヤが大幅に改正された。千歳空港への連絡も「千歳空港駅」の開業で短縮され、札幌〜首都圏の交通ルートは青函連絡船から羽田発ジェット機に移った。

 山線を通過する列車の本数も激減し、目に見えて仕事が減った。誰も口に出さないだけで、小樽築港機関区は消えて行く運命である事は明白だった。

 「東洋一」の扇形庫を持った小樽築港機関区と言う職場と、この扇形庫を後世に残せないか・・・それが主題だった「小樽鉄道硝子」は、その扇形庫内に当時は未だ市内に1つしか無かった体験型硝子工房にレストランやショップを併設して設置し、雇用の確保と小樽観光の新側面を開拓する、画期的なものだった。

 この企画書を書き上げている頃、和田は女房にレストランを開かせた。小樽市東部の住宅地「望洋台」から港が一望出来たので「らいとはうす」と言う屋号にしたものだった。

 この近くにやはり洒落たアメリカンスタイルのレストラン「442倶楽部」があった。そのオーナーが空手の指導等していた工藤竜男だった。

 未だ30代半ばの工藤は弁説がとにかく上手かった。更に和田も舌を巻く程の発想家だった。


 渡部も「らいとはうす」の開店の日に工藤に会った。和田と渡部は工藤に「小樽鉄道硝子」を提示してみた。工藤は素早くその企画の要点を掴み、アイデアを出して来た。

 工藤竜男はテレビ局のディレクターや信販会社の営業等を経てフィンランドへ渡り空手を教えたりとユニークな人材だった。第二次世界大戦時アメリカで結成され、欧州戦線で戦功大の日系部隊「442」に憧れて、普段からアメリカ陸軍士官の格好をし、とにかく目立った。それ以上に国鉄の役人生活では絶対見られない刺激的な青年だった。


 和田・渡部・須田晋等の小樽築港機関区開発チームはこの小樽鉄道硝子の継続と誘客の「目玉」として秘策を持っていた。それが手宮・北海道鉄道記念館に保存されているC623機を移送・復元しその運転基地を兼ねた「運転」と「観光」の一大拠点とする、と言うものだった。

 この時点で、一北海道の役職も無い一国鉄職員達が、今日の観光都市となる以前の小樽の観光と客流をほぼ正確に掴んでいた事は驚愕である。その「秘策」を聞いた工藤竜男も内心驚嘆したと後日語っている。

 「小樽鉄道硝子」で彼等が見た将来的小樽観光システムは、小樽駅から運河、そして手宮方面の「古き良き小樽時代」エリアへの流れと小樽築港駅から小樽築港機関区扇形庫(鉄道硝子施設)、そして新潟・敦賀・舞鶴へのフェリーターミナル、そして堺町方面の「新しい観光の小樽時代」エリアの2つの客流を作り、世代や趣味により選択して「自分の好む小樽」を歩き、しかしその流れは運河で合流・交換すると言うもので、同時に小樽から倶知安迄の蒸気機関車列車で余市・倶知安・ニセコと直接結び付ける事でポイント(点)の観光地区を帯状の観光ゾーンに発展させて行く、と言うものだった。

 その中心に、小樽築港機関区の東洋一の扇形庫がある。

 衰退著しい小樽の過疎化を食い止め、同じ国鉄マン、同じ小樽人を一人でも多く小樽に留めたい、そして蒸気機関車・C623機の維持と言う点で多くの優秀な技術者とその技術の継続が図れるし、新会社にとっても増収=経営健全化のモデルとできる・・・

 これが、C623機プロジェクトの本当の目的だった。

 その「夢」の中心は、国鉄に生きて来た、小樽人のプライドを熱気そのままに後世に伝える、そんな思いがあった。

 価値の大きい夢には情熱もまた大きく集まって来る。

 小樽人達の、国鉄人達の遥かなる挑戦が開始された。

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