私達の源流は昭和五十四年十月一日に創設された、学生によるサークル(任意団体)「日本トレインクラブ」で、東京都清瀬市と千葉県松戸市に住むメンバーが、「鉄道」と「演劇」を愛好する団体としてスタートしました。

 主力のメンバーは翌春に高校に進学、同時に日本国有鉄道上野駅のアルバイト(学生臨時雇用員)となり、以降「上野駅臨雇ネットワーク」が「日本トレインクラブ」のスタイルとなり、昭和五十五年秋頃には演劇サークルを閉鎖し、「国鉄職員を目指す」青年達の集団に変身します。趣味としての「鉄道」を「仕事」としたい者の集まりとなった事で、数多くの鉄道系サークルとは異質なものになります。

 その年の秋、昭和五十六年十一月二十八日に、この「トレインクラブ」に「北海道鉄道研究部」と言う会内グループが設置されます。その活動は「北海道・小樽市に保存されている蒸気機関車C623機の復活運行」を目標として、イベント列車や北海道の鉄道を多角的に研究する、と言うものでした。

 また昭和五十七年八月には東京都清瀬市の「こどもまつり」に協力して鉄道模型を展示、今日に続く「レールフェステ」がスタートします。この時既に「北海道鉄道研究部」は独立して研究発表を行って居ります。

 それまでは異質乍らも趣味サークルの領域でしか無かったのですが、この研究部が最初の課題としたものが「イベントの会場運営と警備」、そして「鉄道マニア対策」で、如何にさよなら列車やイベント列車の撮影に群がる多くのマニアに怪我など出さずに定刻運行させるか、と言う事で、翌年五月三日に独立して一サークルとなった北海道鉄道研究会は警備チームを作る事として、昭和五十七年十月一日に「警備班」を設置、東北・上越新幹線開業で上野発の特急「はつかり」「ひばり」「とき」「みちのく」等が廃止となったその最終日の十一月十四日に「初出動」となりました。

 

 昭和五十八年十月一日に日本トレインクラブと北海道鉄道研究会で合同の警備チームとして「鉄道輸送警備隊」を発足、この所管を蒸気機関車復活運行時の警備主力部隊とする目的で北海道鉄道研究会とし、今日の鉄道輸送警備隊になりました。

 昭和六十年夏に北海道鉄道研究会は一応の結論として、C623機の復元には数億円が必要でとても市民サークルには応じ切れない、しかし従来余り重視されていなかったハードでは無くソフト面でのサポートならばむしろボランティアとしての私達に守備範囲はある、としてとにかく一度「イベント列車」を実施してみよう、と言う事になります。

 

 それが昭和六十一年八月十六日、カーペットサロンカーに改造されたディーゼルカー二両で「そらち」号(札幌−歌志内−上砂川−砂川間)として実現、上砂川町商工会の協力もあり、「故郷帰省列車」として現地の祭事と連動して大成功を収めました。

 その秋、国鉄小樽築港機関区でC623機復元に挑む職員の方から連絡があり、私達はC623機復元計画に参画、昭和六十二年三月三十一日深夜、「夢が現実になった」瞬間に立ち会う事になります。

 小樽市の任意団体「北海道鉄道文化協議会」による翌年四月二十八日の「C62ニセコ」号処女列車から警備に任たり、平成二年末にこの北海道鉄道文化協議会の現地ボランティア同士の内紛による「トレインクラブ外し」まで、警備と情報調査に関わりましたが、この間に在来型一般車(レトロ列車)による地域連動イベント列車の運行を重ね、平成四年十月一日に日本トレインクラブ、北海道鉄道研究会、東北鉄道研究会等が中核となってイベント企画や在来型一般車による地域活性化連動列車等の共同企画推進組織として「青年文化連盟」を設立、後にこれらの団体の殆どの活動を統合しまして、「広く市民運動としてのSL復活」活動の拡大を図ります。

 C623機復活がバブル経済の絶頂期で、それが崩壊して長期不況になりますと、何の法的基盤も持たないサークルではSLはおろか、イベント列車の企画も困難になり、またメンバーの拡大や活動の拡張等、任意団体としての限界を多くの場面で感じ、平成十三年初頭より特定非営利活動法人化の検討に着手し、同年十二月にメンバーの大半の承認を取り付けたのを受けて、平成十四年三月に千葉県に認証の申請を提出、この年の六月十四日に千葉県知事より認証を受け、六月二十八日に登記し特定非営利活動法人交通文化連盟の設立となったものです。

 一方の青年文化連盟は同じ平成十四年九月三十日を以て解散しました。今思えば、特定非営利活動法人なんて制度は当時無かったものですから、この十年はNPO法人になるまでの「過渡期」とも言えるです。

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