全長・・・・21475mm
全高・・・・3980mm
全幅・・・・2936mm
動輪直径・・1750mm
全伝熱面積・244.5立方米
総重量・・・144.94屯
馬力・・・・1620馬力
最高速度・・時速129キロ
日本最大最速最美の急行旅客用過熱式蒸気機関車・・・C62
その第三号機「C623機」。
奴は未だ、死んではいない。


 彼がC623機に出会ったのは、昭和56(1981)年7月28日の正午だった。

 親戚の葬式と言う名目で上野から寝台特急「はくつる」に飛び乗ったのは一昨日だった。8月には仲間達と道内旅行を楽しむ事としていたが、ホームで5M車中に消える彼の姿を見て、仲間達は地平第二ホーム(15番線)に参集してきた。皆、彼と同じ日本トレインクラブのメンバーで、日本国有鉄道上野駅学生臨時雇用員(臨雇)の仲間達であった。

 初めての小樽は感激だったが、ホームに降り立つと微かに異臭がした。運河の腐臭だった。

 彼が幼少の頃である、品川区の今は西大井駅の駅前に親戚の家があり、時々祖母に連れられて遊びに来た。窓から新幹線と品鶴線(貨物線)が見えて、更に手前に森前公園が見えた。その公園の高い滑り台に乗って鉄道を眺める事が何より楽しみだった。

 或る日、遠くから煙が近付いて来た。凄まじい地鳴りと吹出す湯蒸気、汽笛。蒸気機関車D51の首都圏最後の運転だった。

 以来、蒸気機関車は彼に取ってちょっと憧れだった。新幹線やブルートレインも魅力的だったが、あの体を震わせる程の迫力と熱気は脳髄に深く記憶された。

 その蒸気機関車の王様が小樽にある。第一、小樽は北海道鉄道の発祥地で、北海道に憧れを抱く彼がここに来たのは自然な事だったのかも知れない。

 レール上に置いてあった99.95tのC623機は、黒く後志の真夏の太陽を浴びて輝いていた。傍らに「小樽築港機関区」と書かれたトラックが停まっていて、国鉄職員達が一服していた。

 「これ、もう走れないんですよね?」

 「SLは部品換えて、ちゃんとお守すれば幾らでも走るさ、百年や二百年位・・」

 「ええっ?百年ですか?それは無理では・・・」

 「いやいや、蒸機はな、部品を換えて手入れすりゃ、なんぼでも走るよ、特にコイツは最後までウチに居て、言う事聞く奴だったから、まだまだやれるべ」

 衝撃的だった。この時17歳で国鉄学生臨時雇用員として2回目の夏を迎え、一応鉄道屋の端くれだったものの、蒸気機関車なんてさっぱり判らない彼には、単なる「レール上の鉄塊」でしか無いものを、この人達は古い友人の様に言う・・・少なくても生き物として語っている・・・更にそれは動くと言うのである。

 動くものなら、何としてもその姿を見たい。それも自然な事である。

 その8年前まで、C623機は旅客列車を牽引していた。つい4年前に小樽築港機関区からこの手宮の北海道鉄道記念館に移されたばかりで、自力で走った、と言うのである。

 高校生が何が出来るのだろうか・・・普通の人間ならばそう考えたろう、しかし彼は違った。勉強は嫌いで、工業高校の成績は頗る悪かった。が、電気工学や製図、電気工事は学年の上位に居て、学年最下位だった数学の教師が馬鹿にされていると思い込んで怒鳴る程だった。そう・・・一旦執着すると寝食無関係にのめり込む・・・本物の馬鹿だった。

 その馬鹿が馬鹿にさせる出会いをした。何より彼はその暖かい眼をした「不可能であろうものを可能とする」神様みたいな小樽築港機関区の人達に出会えた事が嬉しかった。

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