1964年10月01日改正時刻

 世紀の新幹線開業当時の東海道新幹線と東海道本線を介した西日本連絡時刻です。

 日本国有鉄道第五代総裁・石田礼助のテープカットで昭和39年10月01日午前6時にスタートした「新幹線時代」の幕開けは、実は新大阪からの西日本方面への継送列車の多彩さに支えられたものでした。

 開業当時は東京〜新大阪間4時間運転で、この限られた時間でいかに西日本との時間距離を縮めるかが課題だった様子が、ダイヤでも見て取れます。

 新大阪から九州への「つばめ」はこの当時直流専用の181系電車で、九州島内は交流電気機関車に牽引されての「客車運転」区間でした。

 それでもその日のうちに東京と福岡市が結ばれたとあって、列車は連日満員御礼だったとか。食堂車と軽食堂(ビュッフェ)を従えて、未だ「特別急行列車」と呼べるステイタスが残っていました。

 一方で夜行列車も賑やかで、急行「銀河」や「月光」を筆頭に、西日本各地へ直通列車が往来し、特急並の設備を持った急行が闊歩していたのです。

 この頃、西行と北行では列車番号に対する認識が異なり、やはり一番の看板列車は「第1・2列車」とする北行(このダイヤでは常磐線経由第1D列車・第2D列車「はつかり」及び道内札函間急行)と、列車設定順序による番号付与(このダイヤでは第1・2列車「さくら」)の西行で同じ「第1列車」でも違いがありました。また北行は昭和57年11月14日まで「M・Dが付いていても関係無く1列車は1列車!」とする伝統が守られていて、列車編成もこの「席順」によって決められていたものですが、西北関係無く「第11・12列車」への特別な感情は残っていて、かの超特急「燕」が「第1・2列車」では無く、「更にその上を行く」の意味からか「第11・12列車」を大切にしたのです。

 ページには掲載しませんでしたが、この改正での「第11・12列車」は東海道本線「銀河」で、未だ上野口で20系が特急運用に入っていたのに早々と「急行20系運用」が充当されたり、今日も人気が高い秘密は「11・12」の列車番号を名乗り、「国鉄の代表的列車」だった伝統のせいかも知れません。


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