1937年07月時刻
昭和12年夏の時刻です。帝都・東京から東海道線を経て大陸へ、また東北線や常磐線を経由して北海道、そして樺太への連絡時刻表を掲載しました。
東海道線には超特急「燕」と、その補完列車「臨時燕」が明記されていて、機関車はC51形式からC53形式に「特別急行牽引機」が混在、時代は軍事政権へと移りつつある「暮色の時代」ではありましたが、時刻表では賑やかで艶やかな時代です。
この頃、国内用列車と国際連絡列車が明確に区分されており、国際連絡列車には「原則として」洋食堂車が連結されていました。
ビーフシチユウや、カツレツ(とんかつ)、カレエライス等のメニューが、「特別」な列車である事の一つ演出の様にメニウに踊っていたとか。
ちなみに西行ルートで洋食堂編成は、第11・12列車「燕」、第1・2列車「富士」、第17・18列車、第7・8列車で、北行ルートで洋食堂編成はありませんでした。
但し、上野08時20分発日光10時47分第801列車と、日光16時15分発上野18時32分第802列車は比較的短距離な列車であるにも関わらず和食堂車が付いていました。(毎年3月1日〜11月30日まで運転実施の季節列車)上越ルートでも上野〜新潟・秋田行第701・702列車くらい、中央線では皆無なのに、です。
東武鉄道との対抗措置なのでしようが、今や新宿〜日光間で共同運転をしている「日光観光列車戦争」の一幕が垣間見えます。
高崎線関係では上野〜米原間に直通列車が見える他、上野発会津若松経由新潟行寝台車付列車があるなど、未だ大正の香りも残しているダイヤ・・・と言いたいのですが、上野〜信越線〜近畿方面列車は後々の特急「白鳥」<上野〜大阪>のルーツ的列車でもあります。
更に北海道では稚泊航路連絡列車が苫小牧・岩見沢「室蘭線」経由で設定されています。この頃千歳線は北海道炭鉱汽船株式会社の路線だった事と、札函間は函館線山線がメインだった事の証明でもあります。
大陸では「ひかり」「のぞみ」「あじあ」の列車愛称も見られ、欧亜連絡列車の輝きを放っていました。
さて、西行時刻で御留意頂きたいのは「関門間」です。実は関門トンネルが未完成だった為に、「関門下関」とありますのは、関門連絡船の下関棧橋出航と言う「船時刻」です。