「雪霜に色よく花のさきがけて 散りても後に匂ふ梅が香」
常陸国行方郡芹沢村(現・茨城県行方郡玉造村)に芹沢貞幹の三男として産まれて、江戸の道場(神道無念流)で修行し、免許皆伝となった芹沢光幹は水戸藩を脱藩して過激な攘夷運動の中心的存在となった。新選組筆頭局長・芹沢鴨光幹である。
藤田東湖の水戸派尊王攘夷思想(水戸学とも言われる)に刺激・傾倒して、後に筑波で挙兵する武田耕雲斎らと共に運動、これが後日の安政の大獄、そして時の行政最高責任者・井伊掃部頭直弼暗殺事件(桜田門外の変)へと波及する。一方で、その思想は長門国萩藩毛利家家臣達など全国にも飛び火したとも言われる。
尊王攘夷は後々尊王倒幕へと変転するが、そのルーツが水戸思想だった。
「印篭」の水戸黄門こと徳川大納言光国で有名な水戸徳川家は、尾張国名古屋藩・紀伊国和歌山藩に並ぶ「徳川御三家」で、その9代藩主が徳川斉昭である。儒学と造園土木に造詣が深く、現在も梅の名所で有名な「水戸偕楽園」は、送り名で烈公と言われた徳川斉昭の設計である。
その斉昭が、藤田東湖の影響を受けて激烈な尊王攘夷のリーダーとなり、結果開国が政策基本方針としたかった大老・井伊掃部頭直弼の弾圧にあって蟄居謹慎となった「安政の大獄」で、斉昭の後を継いで水戸藩主となったのが、後に千葉県松戸に住む徳川昭武で、最後の将軍・徳川慶喜も会津若松城落城時の会津藩主・松平容大(喜徳)も斉昭の実子である。
芹沢鴨光幹は脱藩後、攘夷活動を多方面で行っていた様子だが、小石川・伝通院で募集された浪士隊に応募し、幹部として仲間を率いて上京、清河八郎正明の突然の尊王攘夷宣言に「義が通らぬ」として近藤勇達試衛館派と共に残留、実の兄が会津藩京屋敷に詰めていた事と京都守護職や町奉行所だけでは不足していた京都治安警戒の補完要員として、会津藩指揮下(会津藩主松平肥後守容保御預)の身分を得たのである。
豪傑で熱血漢ではあった様子だが、多分に神経質で他人の評価・評判を気にする性分と推察され、酷い酒乱だったと言う。
芹沢鴨の産まれた行方市旧玉造町地区は、「空の新選組屯所」航空自衛隊百里基地に隣接した落ち着いた風情の街で、維新の頃の史跡も多く残っている。
水戸は戦国時代に常陸大田に本拠を置いていた源氏流の名門・佐竹氏がここに城を構えた事から始まる城下町で、人口24万人の県内最大の都市である。
表題の句は、水戸藩士時代(一説には脱藩直後)に酔って部下三名を斬首し、逮捕されたその牢屋で書いた辞世と伝わるもの。300匁(1125グラム)の「尽忠報国」と刻んだ鉄扇を振り回して、巨体で暴れる様から「壬生浪」と都人から悪評され、その振舞が文久3年9月16日(西暦1863年10月28日)に暗殺される結果となる。
「梅が香」の梅は、藩主・烈公(斉昭)が好んだ花で、今日も偕楽園は日本三大庭園として残り、シーズンには全国から140万人を呼ぶ水戸最大の観光地である。
現在の偕楽園は観梅シーズン中の土日祝日に、常磐線下り線のみの臨時駅「偕楽園」が開設されて、上野からの特急や普通電車の他、臨時列車も運転され多いに賑わう。
○行方市役所
東日本旅客鉄道水戸支社
→上野駅から常磐線普通列車か特急「ひたち」系統で水戸駅。
鹿島鉄道株式会社
→上野駅から常磐線・石岡駅で鹿島鉄道乗換、玉造町駅下車。
上野から「ひたち往復きっぷ」(7000円・都区内〜勝田駅まで)だと、特急の指定席・自由席も御利用頂けます。また、フレッシュひたち号限定の4枚綴り回数特急券(乗車券は別)は指定席用4400円・自由席用2800円で、自由席用ですと一枚700円(通常は1310円)で断然お徳です。