盟友・永遠の別離と新たな出発の地

 近年迄、一度徳川海軍軍艦「富士山」で大坂から戻った新選組甲陽鎮撫隊として再編成されて甲斐に向かい、西軍に敗退後は流山で近藤勇が西軍に出頭するまでの間は不明確で、流山には約一ヶ月間駐屯していた・・・と言われていたが、実は近藤勇(この頃は大久保大和守剛)は出頭前日に流山に入り、その前夜は松戸で宿泊、更にそれ以前は足立郡五兵衛新田(足立区綾瀬四丁目)に駐屯していた事が資料の発見などで解明されて来た。

千住(東京都足立区)に西軍先鋒が迫ったとの報に接した大久保大和守剛(近藤勇)率いる新選組227名は、下総東葛の交通の要衝・流山の治安維持と言う名目で、実は江戸に対する「江戸城無血開城交渉」に伴う西軍威圧の為に慶応4年4月1日(西暦1868年4月23日)に五兵衛新田淵江領名主見習・金子健十郎長行邸の本陣を引き払い、水戸街道に沿ってこの日の夜に下総・松戸宿の宿(現・ホテル千檀家)に入った。(一部先発隊は流山に1日には着陣との記録もある)

 松戸は古くからの宿場町と同時に軍事的要所で、平安末期には「まつさと」として地名の記述が残り、戦国期には相模・後北条家上総・里見家常陸・佐竹家常陸筑波・小田家の最前線で、幾度か戦禍に遭っており、現在裁判所のある丘に「相模台」として地名が残っている。

 徳川幕藩時代は幕府直轄領として鷹狩や軍馬育成地として、また水戸徳川家の江戸参勤(水戸藩のみは参勤交代が例外的に設けられなかった。しかし将軍家常任参与として水戸藩主は常時召出に応えなければならなかった。)の要所として、幕府の篤政重点地域でもあった様で、左幕思想の強い土地だった。

維新後は陸軍の要塞地域となり、現在の新京成電鉄(これも元々は陸軍鉄道連隊の訓練線)南側は砲兵学校(松戸駅東口の丘、現・中央公園)の訓練場であり、流山には軍馬糧秣廠(馬草倉庫)が置かれたりと「陸軍の町」として発展した。戦後はそれら軍用地は宅地に変身し、首都隣接のベッドタウンとして急速に人口が増加し、都外では常磐線沿線最大47万都市となり、一時はその電車の混雑は世界最悪として名を残す程。

4月2日(西暦4月24日)早朝に松戸を出発した新選組=徳川陸軍別隊は、流山街道(現・県道松戸野田線旧道)に沿って流山に入り、本陣は味噌等の醸造業で、伊勢・桑名藩御用商だった長岡屋七郎兵衛方に置き、大多数の兵は流山寺光明院等に分宿した。この他鉄砲大砲隊を飛地山(現・流山市役所)に置き、近隣で訓練を行っていたと言う。一説にはこの地にあった駿河・本多家田中藩下屋敷占拠を目指しての移動だったとも言われたが、江戸無血開城に際する「官軍包囲・軍事威圧作戦」(交渉決裂の場合は江戸市中と城に火消しと博徒等が放火し、それを合図として徳川方部隊が包囲・殲滅する作戦)実施の場合、兵員輸送と江戸市民脱出輸送を行う貨物船舶が必要と成り、当時利根川(現在の江戸川)流域で最大とも言える貨物船基地だった流山を抑える目的で進駐した、との考え方が自然。江戸開城が秒読み段階だった頃でもあり、本来は尊王攘夷を最初に掲げて当時の幕府から散々な目に遭って井伊直弼暗殺武装蜂起と過激な水戸藩士、それが将軍・徳川慶喜の実家となって複雑な情勢であり、事前策として勝安房守義邦等徳川陸軍が派遣した節もある。

 翌日3日、西軍先鋒隊宇都宮斥候隊は北葛飾(埼玉県三郷市)に進出していたが偵察方から流山に軍勢有りの報を受け、香川敬三指揮・有馬藤太参謀の先鋒隊中隊(本来は岩槻方面へ出かけた偵察部隊)が流山市街地北部から渡河して市街地に布陣した。数発の鉄砲の打ち合いもあったと言う(流山市博物館蔵・恩田氏日記)が、午前は小雨の天候で西軍との小競合いは夕刻との記述もあり、第一この時点で流山市民は「避難」していた。そもそも戦死者等記録が無いので、小競合いと言うよりは「信号」として発砲した、或は当日に別の場所で砲術訓練をしていたとの話もあるのでそれと混同した可能性はある。(大砲を陣屋に向けて・・・との伝承があるのだが、宇都宮斥候隊は砲武装の記録は無く、むしろ大久保大和守剛・有馬藤太の会見後に大砲・鉄砲の引き渡しが為されているので、受け取った大砲が「威嚇の為に」と書き換えられた可能性がある。)

西軍は有馬を軍使に立てて本陣に行き、恭順=武装解除と解散を申し入れ、その責任者に事情聴取の為に任意同行を求めた様である。既に2月12日に江戸城登城の際にかなりの規模の所領を受領した大久保大和守(近藤勇)「徳川家陸軍奉行頭支配向歩兵隊(別の記録には徳川陸軍別隊として「流山治安維持の為に派遣された徳川直轄警察部隊」と言上し、「官軍に手向かいはしない、武器弾薬は差し出すが徳川家の指示無く解散は出来ない、自分が官軍本陣に行き事情説明するのでちょっと待っていて欲しい」と有馬には伝えている。薩摩藩士有馬藤太の回顧録によると、「粕壁まで同行を求めたところ、始末を付けてから行くのでお待ち頂きたい、と威儀を正し物腰・恰好が少しも慌てた様子もなく堂々としていた」と言っている。これが谷干城(土佐藩士)の物言いだと「近藤勇に似ていたので疑って連行した」とある。この証言に関しては谷が後年、西南戦争熊本鎮台司令として50日間も西郷軍に攻め立てられたが持ち堪えた英雄であり、薩摩に恨み骨髄の人であった、と言う事も御留意頂きたい。

 巷間で説となる「近藤勇自首」「捕縛」は誤認であることがここで確認出来る。またこの時には徳川家陸軍奉行と言うポストは陸軍総裁の元に管理され、その陸軍総裁は誰有ろう勝安房守義邦(海舟)だった。

近藤・土方の別離や何故流山に来たのか現在までは謎だった。それまで手掛かりとされたのは慶応4年1月に野々下村・市野谷村(現・流山市)が作った「組合議定」(流山市博物館蔵)で、慶応3年以降強盗や暴力事案が頻発し治安低下が著しくなったこの地域で自衛策を講じた取り決めで、ここに「然るべき幕府の正規警察部隊を呼んで治安維持を要請したい」と決議している。これと五兵衛新田(現・足立区綾瀬)淵江領名主見習・金子健十郎長行邸に残された多数の記録から、本来は早期に会津へ転戦したかった大久保大和守達が大鳥圭介純彰松平太郎正親に留まる様に指示され、ギリギリの線で西軍との直接対決を避ける様に流山に水戸街道を移動した事である。流山が東関東内陸の水運の要衝であった事と、江戸開城の交換条件としての「包囲網布陣」の実態から、徳川家が「機動警察隊」を派遣した事は自然であり、勝安房守義邦西郷吉之助(隆盛)との政治交渉で「将軍助命等受け入れられぬ場合は府内(江戸)に放火して包囲した幕軍で官軍を攻撃する」と脅迫し、実際その準備に浅草の「新門の辰五郎」や「弾左衛門」と言う火消し衆や民間組織に働きかけをしている。この「包囲網」のひとつとして「官軍ににらみ」を効かせるには、やはり「新選組」は絶大だった。

 当時、新選組=徳川陸軍別隊はフランス直輸入の「後装填方式小銃」を標準装備し、本格的洋式軍事訓練を受けた「幕末最強の近代的砲兵部隊」でもあった。五兵衛新田での長期滞在で、その弾薬等の製造を行っていた事が平成17年になって足立区で発見・解析された資料から解明され、当時の軍事的地政学の見地から考えれば、以上の様な推論となる。

4月3日宵の口に大久保大和守野村利三郎村上三郎同行させて越谷へ向かっている。これが近藤・土方の2人の盟友の今世の別離となるのだが、「逮捕・捕縛」なら副将の内藤隼人正義豊(土方歳三)島田魁達幹部も逮捕されるが当たり前、第一逮捕者に「同行者」が付く訳が無く(脱走幇助の危険があるから)、谷が「偽名を語った近藤勇見破り」と言うのは自己顕示も甚だしい。戦国時代から、武士は城持・国持となると改名して威を上げるしきたりがあり、一応甲斐国守の大大名として徳川家若年寄格(老中同等)に抜擢され、官職も従五位上・大和守を授けられた者が改名しない訳が無い。それを「偽名」としたのは、そのしきたりも満足に知らない下っ端の武勇伝と喝破したくもなる。

 4日になって内藤(土方)は江戸に潜入して勝安房守義邦に謁見し、夜には松本良順邸に行っているが、この日に西軍本陣で元新選組隊士・御陵衛士(伊東甲子太郎武明派)だった兵士が「近藤勇と見破った」とも言われて「駕篭」で板橋に護送された、とこれまた巷間に流布されている。(有馬は本来外交サイドの人間だが、西郷の腹心として数多く戦陣を駆け回っている。その有馬が近藤とは面識があったとの説もあるが、ここでそれを暴露していない事で、薩摩の近藤達の助命に傾向していた事が伺える。また谷の記述によると近藤勇と判明して逮捕したのは8日、板橋での事としている。)

 その日に内藤が勝に「助命嘆願」出来る筈は無い。もとより武士として落命覚悟で京都を駆け回ったのである。そのうえ内藤が流山から江戸に向かっている途中に越谷から板橋に「護送」されているのだから、「捕縛」された事すら知る訳も無く、或は同行した野村・村上からの連絡があったにせよ、武士として幕臣として、死するは誉れである。但し、武士としての面目を重んじて「切腹」にして欲しいとは嘆願したやも知れない。(勝邸から松本宅への間に島田魁達と合流しているとの記録もある)

 これは推測でしか無いが、流山は大久保大和(近藤勇)内藤隼人(土方歳三)永遠の別離の地であるのは間違い無いが、それは死に場所を求めて行く旅の出発地では無く、徳川家重臣として政治家として、確かに各々の役割・自らの道を一歩踏み出した地であると言うべきでは無いか、と推察も出来まいか。

 これ以降、8日から大久保大和に対する審問が始まり(取り調べは谷が自ら行った)、薩摩中村半次郎(桐野利秋)が警告申し入れしたにも関わらず、25日に近藤勇は罪人として斬首された。(近藤の処断を勝手にやったら、薩摩軍は帰国するぜ!と殆ど脅迫的な申し入れをしたにも関わらず、坂本竜馬暗殺は新選組だと勝手に誤解して頑に信じた土佐・乾退助や谷干城等の強硬な主張で斬首となったとされている。流石に後年、中古品を押し付けられて日本の鉄道を軌間の狭い狭軌鉄道とし、国土発展を鈍らせた板垣退助らしい。)

一方、流山に残留した新選組は、京都や甲陽鎮撫隊からの同志達等一部(人数等不明)が6日小金を抜けて鴻ノ台(市川市国府台)に、途中で脱落した者を除く徴募兵布佐(我孫子市布佐)から船で銚子へ抜けて潮来から水戸街道を北上していると言われる。(流山市説)内藤隼人を元の名「土方歳三義豊」に戻した土方は、11日にやはり鴻ノ台の伝習隊等幕軍に合流、12日には会津藩秋月某大鳥圭介率いる徳川陸軍の前軍(第一軍)参謀に命ぜられ、小金・取手・下妻を経由して宇都宮城攻撃に向かっている。

 結果的に大久保大和守剛=近藤勇は自身を「囮」として下総の徳川陸軍を逃がした。が、その真実は謎である。事実だけを幾ら積み上げても真実は見えないし、真実と事実は全く異なるものである。当時の証言や記録は確かに証拠となるが、それだけでは真実は見えなくなる。

 その人間の真実を見極める為には、その人間の「真髄」と「人間的傾向」を洞察する事が第一歩ではなかろうか。

 流山で、京都以来の幕末機動警察隊・新選組は終結し、これ以降新選組は徳川陸軍の最精鋭機動軍と変貌する。多摩以来の盟友の別離と確かな新時代の出発は、このひっそりと静かな街でなされたのは確かである。

 4日に尋ねた土方の事をは短く書き残している。これを一部には土方近藤を軽んじていたとする輩があるが、後年「氷川清話」(勝海舟)に注目する一文がある。

 あてにもならない後世の歴史が、狂といおうが、賊といおうが、そんなことはかまうものか。要するに処世の秘訣は「誠」の一字だ。

現在、松戸市は首都圏のベッドタウンとして47万の人口を抱える巨大都市で、千葉県内では千葉市(87万)・船橋市(55万)に次いでの規模で、東京外環高速や北総開発鉄道と基盤整備もたけなわ・・・故に県内最悪の借金も抱えている。マンションや新築住宅の着工戸数もトップクラスで、観光梨園や栗林に囲まれたのどかなベッドタウンの風情は消えつつある。まぁ、松戸駅から上野駅まで常磐線快速電車で20分、本気で疾走する15両編成通勤電車で首都中心まで一本・・・曰く「松戸電車区電車の墓場、唸るモーター鬨の声」であり今迄田舎町だった事の方が奇跡だった。

 この松戸には元は小金城(千葉県松戸市大谷口)の「外城」として築造された「松戸城」跡に、明治16年になって建造した水戸徳川家別邸があった。後に松戸市に寄贈され現在も「戸定ケ丘歴史公園・戸定邸」として残っているが、慶応3(1867)年にフランス・パリ万国博覧会の派遣団長として帰国した元水戸藩主・徳川斉昭の嫡男、徳川昭武が暮らしていた所としても有名である。

 徳川昭武は実兄が一橋家の養子を経てこの時に征夷大将軍をしていた徳川慶喜であり、直ぐ下の実弟松平肥後守容保から家督を継承して、会津若松城落城時の会津藩主だった徳川喜徳(容大)である。その昭武が蝦夷地討伐を命ぜられていた事は余り知られていない。

 維新後は茨城県の商工業発展に影となり活躍した昭武は写真趣味者のパイオニアでもあり、後年は松戸の戸定邸に住み、松戸の風景や人々の生活等、貴重な写真資料を数多く残している。平成15年には美智子皇后が御来訪になり、それまで市民ですら余り知られていなかった戸定邸がちょっと有名になった。

常磐線は首都圏でもマイナーな路線で、故に松戸も流山も有名では無いが、この常磐線も「戊辰」の影響を受けている。当初は日本最初の私鉄・日本鉄道が上野から水戸を経由して、常磐炭田(福島県いわき市)輸送や東北・北海道の高速列車バイパスとして構想したものの、徳川慶喜の実家・水戸彰義隊激戦地の上野へ直通する事は忌避され、田端から南下して千住へ向かうルートとなった。これには日暮里や上野から南千住の間の土地確保や土手・橋梁の建築が厳しいと言う技術・資金的問題があったものの、田端からのルートとなった。(上野から出た列車が田端で機関車を付け替えて逆行して松戸方面へ行くもので、明治28年12月25日に田端〜土浦間を海岸線として開業している。宇都宮までの東北線が明治21年開業なので7年遅れだった。)念願の日暮里〜三河島間高架が完成し、直行で上野からの列車が往来するのは明治38年4月1日の事である。鉄道建設に際しては流山の水運業者の猛反対があって、元々は松戸−流山−水海道−土浦と進む鉄路が柏へ転進したと言うエピソードがあり、後に流山の人々は馬橋〜流山間流山軽便鉄道を敷設、大正5(1916)年3月14日に開業、これが今日の総武流山電鉄である。

 流山市は15万、醸造と農業ののどかな街・・・だったが、平成17年には首都圏新高速鉄道(つくばエクスプレス)が市内を縦貫して開業する。東武野田線JR東日本・武蔵野線沿線は早くから急速な宅地化が進んで居たが、近年総武流山電鉄沿線も宅地化が進み、今後首都圏新都市鉄道の開通でそれは加速するだろう。

 一方の陣屋の残る流山本町付近は現在も数多く明治期の建築物が残る、風情のある街並である。陣屋跡の見学に御来訪の節には流山広小路のレトロゾーンも歩いて頂きたいもの。そして流山に入る節には総武流山電鉄を御利用頂きたい。首都圏では珍しくなった5.6キロ・全線単線の最長3両編成のローカル(失礼!)電鉄、一応全車冷房車だがこの電車と流山の街はとても似合いである。

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流山市流山市役所/04-7158-1111

松戸市松戸市役所/047-366-1111

松戸観光協会観光協会事務局/047-366-7327


総武流山電鉄「新選組仕様入場券発売」

 総武流山電鉄では流山の新選組まちおこしに連携して、以下の企画を展開します!

●「誠文字入記念入場券セット」

 硬券入場券に「誠」の文字入限定発売(480円、総武流山電鉄・土方歳三・近藤勇の千社札シール付)


流山駅頭・新選組史跡観光御案内ボランティア実施中!

 特定非営利活動法人交通文化連盟では、総武流山電鉄流山駅頭にて流山市内の新選組史跡の御案内ボランティア活動を行っております。

 史跡御案内のオリジナルマップや最新情報の御案内を無料で行っております。また、ミニガイドツアーも人数等によりお承り申し上げます。どうぞ御利用下さい!

※ボランティア活動の日程はイベント情報を御覧下さい。


流山の市街・広小路付近には歴史的建造物が多く残っており風情豊か。

新選組本陣跡(近藤勇陣屋跡・旧長岡七郎兵衛邸土蔵)内部は非公開。

(総武流山電鉄流山駅徒歩4分)

 現・株式会社秋元。当時の蔵が残っていて、記念碑や案内が設置されている。

※駐車場は御利用になれません。また休日を中心として本陣付近では交通文化連盟の観光案内ボランティアが御来訪の皆様の御案内をさせて頂きます。(上を御参照下さい)

<新選組本陣跡(現・株式会社秋元)>

新川屋内部は非公開。

(総武流山電鉄流山駅徒歩4分)

 1890年築造の木造商家建築で国の重要有形文化財。創業は1860年で、現在も呉服商として営業中。2005年11月25日に改装「復元」工事が完了した。

松戸市戸定歴史館047-362-2050(定休月曜・営業9時30分〜17時)

(常磐線松戸駅徒歩10分)※入場料240円

 元は松戸城と言い、小金城の外城だった。「そとしろ」が詰まって「とじょう」となったと言われている。水戸藩主・徳川昭武別邸で、維新後ここに住んだと言う。昭武や慶喜が撮影した多くの写真や資料が展示されている。また日曜祝日には観光案内ボランティアによるガイドもある。


流山市立博物館(田中藩下屋敷・東葛県庁跡、定休月曜と休翌日・営業9時30分〜17時)04-7159-3434入館無料

(総武流山電鉄流山駅徒歩6分)

閻魔堂

(総武流山電鉄流山駅徒歩4分)

 義賊・金子市之丞の墓所がある。

矢切の渡し

(北総開発鉄道矢切駅より徒歩20分※日祝日には特定非営利活動法人による無料バス運行)

 演歌で有名な矢切の渡し。本当は「野菊の墓」の舞台として登場して有名になったもの。でも・・・何も無いのですが・・・(by:松戸市民)葛飾区との間に渡しは現在も週末中心に運航中です。(200円。但し強風・雨天時欠航)

ましや04-7158-1018

(総武流山電鉄流山駅徒歩7分・流山広小路)

 観光グッズの製造・直売を行っている。新選組隊旗・2500円〜やオリジナル隊服法被・4000円(こども用あり)の他、扇子や手拭半纏、手拭タペストリ、ストラップ等この店でしか販売していないグッズも含めて多数取り揃えている。最注目品はましやオリジナル設計の隊服羽織で、羽織紐付で11500円。なにしろ本格的男羽織仕立で諸資料から当時の羽織を再現、染色は水色に近い浅葱で好評販売中。

寿美屋04-7158-0453

(総武流山電鉄流山駅前街道角)

 パンや食品の販売の他、電話で前日まで御予約頂くと団体・グループのランチも御用意!

カメラのテラジマ04-7159-5980

(総武流山電鉄流山駅徒歩2分)

 本格スタジオ撮影は是非!持参した衣装での記念撮影は如何?

富塚輪業

(総武流山電鉄流山駅徒歩3分)

 販売のみならず修理も即座にお承ります!

イトーヨーカドー流山店04-7158-5211(代表・お問い合わせは販売促進部)

(総武流山電鉄平和台駅前)

 史跡観光で来訪の際に「休憩基地」としての御利用をお勧めしたい。店内には喫茶・食事の他にデジカメや携帯電話で撮影した画像をその場でプリント出来るショップ(カメラのテラジマ)や、可愛いアクセサリーショップ(メリーゴーランド)もあり、家族連れでも楽しめる。駐車場完備。

新京成電鉄鉄道模型館(水曜定休・営業10〜17時30分)

(新京成電鉄上本郷駅下車駅ビル2階)

 鉄道模型に絞り込んだ鉄道会社直営施設は全国でもここだけ。鉄道模型の運転とグッズ販売等で、鉄道模型や部品の販売はしていない。

ホテル千檀家047-362-2651

(松戸駅西口徒歩7分)※和室一名5500〜

 近藤勇と土方歳三が宿泊した宿。24時間営業で松戸駅に近く流山散策時に御利用至便。


清酒「新選組本陣長岡屋」(秋元04-7159-1111)

 本陣跡の現在の所有者・秋元様の販売する清酒で720ミリリットル・1000円で、化粧箱詰の極辛口仕上の逸品で、流山・松戸市内酒店やイトーヨーカドー流山店などの他、本陣跡隣接の販売コーナーでも購入出来る。この他飲み口の良い焼酎「矢切の渡し」などもある。

直売菓子パン(丸十パン店04-7158-0771)(営業6〜20時)

(総武流山電鉄鰭ヶ崎駅徒歩1分)

 創業三十余年、隠れた流山の味覚ポイント。驚愕の価格と懐かしい味が自慢。紫いもパン(80円)やクリームサンドカステラ(250円)が代表、他におさつケーキ(100円)とカステラ(150円)もお勧めで、次々新作も登場。尋ねて損は絶対無いが売切御免!尚、申し出ればクリームや小豆のサンドをほんの数十円追加で特注出来る!原則的に無休!

わらび餅「勇餅」(和食・柳屋04-7158-1078)

(総武流山電鉄流山駅徒歩2分)

 素朴な味わいの御菓子で1パック250円。お土産にもお茶請けにも絶好の逸品で、不思議に珈琲や紅茶にも合う!柳屋は本来が和食店でその他、勇膳・3500円や勇弁当・1000円が楽しめる。ちょっと入り辛いが、1パックからでも喜んで販売してくれる。但し厳選素材で少数製造なので売切御免!

和風洋菓子「誠」(美しまや04-7159-0546)

(総武流山電鉄鰭ヶ崎駅徒歩4分・東洋女子短大方向に歩いてT字路を右へ)

 店主が新選組ファンで御嫡男「誠」氏から命名・・・と来ればその気概も判ろうもの。蒸しカステラにココアパウダーを纏いあんこをサンドし、120円のお手頃価格で販売(10ヶ1380円・化粧箱入もあり。)お茶・珈琲と飲物を選ばず合うのも嬉しい。お土産にも喜ばれる逸品である。

○和菓子「陣屋もなか」(清水屋)

(総武流山電鉄流山駅徒歩6分・流山街道旧道沿)

 お茶請けの土産に最適とお勧めする逸品。本陣の「蔵」を象った最中に甘さ控えめの餡、種類もいろいろで楽しめる。但し開店は平日のみなので、平日に御来訪の方限定のお楽しみとなる。


総武流山電鉄 馬橋〜流山間10分190円 04-7158-0117

京成バス 松戸・運河〜流山駅前 03-3691-0935

新京成電鉄 松戸〜京成津田沼間 047-389-1140

JR東日本 常磐線上野〜馬橋間・武蔵野線他

「松戸」→上野駅から常磐線松戸駅。

「流山」→上野駅から常磐線松戸駅で常磐緩行線乗換、馬橋駅で総武流山電鉄乗換、流山駅。


古い街並を満喫する流山

 流山駅を降りて、本陣跡から閻魔堂を抜けて旧流山街道へ出ると、明治・大正期の古い家屋が並ぶ街並に出ます。

 流山の魅力は自然体にそんな歴史が生活の一部になっている、変に派手な観光都市で無い所が魅力です。故に施設的には充実していると言えませんが、休憩にはイトーヨーカドー流山店も隠れたスポットです。


幕末機動警察隊・新選組