新選組最後の局長・近藤勇終焉の地

 東日本旅客鉄道赤羽線(愛称・埼京線)板橋駅前のロータリーの反対側に木立があり、そこに近藤勇・土方歳三の大きな墓碑がある。杉村義衛(永倉新八)松本良順など幕臣達に呼び掛けて建立したものである。今や人口50万人の巨大区の玄関のこの地は、幕末には宿場町の外れの寂しい場所だった。

近藤勇宜昌は35才で斬首された。その心中は図り知れないが、その死に臨んでも尚武士としての誇りを失わず、「大久保大和守剛」として死した。

 慶応4年4月3日(西暦1868年4月25日)に流山で事情聴取の為に任意同行を求められた大久保大和守剛(近藤勇)は、野村利三郎村上三郎の2名を伴い西軍士官の香川敬三(土佐藩)・有馬藤太(薩摩藩士)等と共に先鋒隊本営に出頭、そのまま板橋の東征軍本営に護送され、ここで取調を受けている。

 任意同行された大久保大和守は、当初は流山に布陣して屯集していた事の事情聴取をされた様で、その宿舎は板橋宿脇本陣の豊田市右衛門邸に充てられ幽閉状態に置かれ、8日(西暦4月30日)から「尋問」が始まり、と記録にある。

この間に「大久保大和守剛」=「近藤勇」である事が「暴露」された、と一部記録にはあるのだが、それ以降も薩摩藩が「斬首」に反対していた事は知られていない。これを「同情論」と言えばそれまでの事だが、坂本竜馬暗殺は新選組の仕業との勝手な思い込みをした乾退助(板垣退助)谷干城土佐藩士の強硬な私罰=リンチとしか言い様の無い「斬首」を引き起こしたのは一面に土佐青年藩士達の竜馬への傾倒と、一面には政治環境や国内外の情勢を読めない無謀が見える。

 更に連行翌日(4月4日=西暦4月26日)に勝安房守義邦と面会した内藤隼人正(土方歳三)は、翌日に相馬主計に命じて、土方歳三義豊大久保伊勢守忠寛(一翁)の連名の書類を板橋の大久保大和守に届けているが、外部との通信が断絶されていないところから察するにこの時点では「犯罪者として逮捕」されているものでは無いと捉える方が自然である。

 ところが4月24日(西暦5月16日)に滝野川村三軒屋・石山邸に移送され、4月25日(西暦5月17日)に板橋宿外れの処刑場で斬首されてしまった。この前日、土方歳三達は宇都宮城攻防戦に敗退し、今市(現・栃木県今市市)から会津に撤退しているのである。

斬首の様子を近藤勇の甥・近藤勇五郎が目撃している。安否の確認で訪れたところ偶然目撃してしまったらしく、多摩の宮川家に急報し、27日には遺族が首無し遺体を引き取りに来訪、一説によると松本良順も立ち会って警備兵を買収し、28日深夜に掘り起こして多摩に運び、遺族は河原でそれを迎えたと言う。

 多摩・上石原村(現・調布市)で生まれ、道場主の継嗣となり「天然理心流・試衛館」主となった近藤勇宜昌は面倒見の良い人物だった事は、異流(剣術流派)の人間(永倉新八載之は神道無念流、山南敬助知信と藤堂平助宣虎は北辰一刀流、原田左之助は種田宝蔵院槍術など)が、(無名で貧乏だった試衛館に)食客として集っていた事からも推察出来る。一度は袂を分けた永倉が明治9年5月(西暦1876年)に(官軍政権下で)此処に碑を立てた事から、永倉の近藤と「新選組」への友愛と情熱が推察される。

近藤勇は当時の政治的環境から「賊」として処刑されたのだが、「近藤勇処刑」とその以前に発生した「前勘定奉行・小栗上野介忠順一家斬殺」は思わぬ影響を全国にもたらしてしまった。「無抵抗で恭順=降伏しても私怨で処刑されてしまう」、つまり新政府には武士の情けは通用しないとの恐怖心である。難無く4月11日(西暦5月3日)には江戸に無血開城し、その自惚れから強気だったのかも知れないが、その暴若無尽の行為は左幕派諸藩、とりわけ東北の諸大名や幕臣達の抵抗を強める結果となってしまったからである。実はこの時、西軍は徳川勢力に包囲されており、(八王子千人同心・相模方面の旗本部隊・下総安房の諸藩脱退部隊・東海道や浅草の火消しや仁侠部隊・上野東叡山寛永寺の彰義隊等)勝安房守義邦の命令一箇で、ゲリラ戦や斬り合いに掛けては自分達より数段腕の立つ武士軍団が、江戸の官軍を殲滅する危険があった。

 勝と江戸開城交渉に当った西郷吉之助(隆盛)中村半次郎(桐野利秋)ら薩摩軍主脳が、近藤勇の処刑を反対したのは、会談(それ以前に徳川軍に身柄拘束されていた薩摩藩江戸屋敷詰・益満休之助の仲介で、山岡鉄太郎高歩=鉄舟が事前交渉をしている。)でその辺りも嚇された、と考えれば、情に厚い西郷の・・・と言う人情論よりは、戦略的意味合いでの「近藤勇助命」と考えた方が現実的かも知れない。

 結果として、近藤勇は我が身を犠牲にして新選組を会津へ逃がした事は確かで、それは彼独特の友情と忠義=「誠」だったのではないだろうか。

 その処刑場の目の前が鉄道駅なろうとはこの時誰が想像したのだろう、奇妙とはこの事だろう。

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板橋区板橋区役所/03-3964-1111

板橋区観光協03-3579-2255


新選組墓所

(JR埼京線板橋駅東口徒歩2分)

 永倉新八が発起人となった墓碑は2つあり、近藤・土方の他に102名の名が並ぶものと、永倉自身のものもある。毎年4月25日にはここで慰霊祭が行われる。


○板橋区郷土資料館03-5998-0081

(都営地下鉄三田線西高島平駅徒歩10分)


滝野川新選組フェスタ

 毎年、近藤勇ゆかりの地・滝野川で行われるイベントで、詳細は板橋区観光協会ホームで。


JR東日本埼京線(赤羽線)・池袋の隣駅。

→上野駅から山手線池袋駅で埼京線(赤羽線)乗換、板橋駅。


独特の「城北下町情緒」が生き続ける板橋

 板橋は江戸情緒と高層建築が同居する都区内でも独特の雰囲気を持っていて、滝野川地区は山の手の静かな風情が残り、板橋本町地区は庶民の街として活気に溢れている。

 区内は史跡の宝庫でもあるが、高島平団地に代表されるベッドタウン機能もこの区の特徴で、各々商店街の個性的な事は多分全国一。史跡巡りの帰りに買い物袋を両手に抱えて帰って来てしまう不思議な魅力がある。

 新選組の史跡をターゲットとするとJR東日本の都区内フリーきっぷで充分なのだが、都内地下鉄も共通で使えるフリーきっぷもあるので、これで郷土資料館にも是非立ち寄って頂きたい。


幕末機動警察隊・新選組