東洋近代海戦史唯一の戦艦奪取作戦の地

 仙台を出航した榎本和泉守武揚指揮の幕府海軍艦隊は、ここ宮古湾・鍬ヶ崎海岸に明治元年10月13日(西暦1868年11月26日※先発隊)立ち寄り後に蝦夷を目指すが、その11月に蝦夷・江差で開陽が座礁沈没した事を受けて、世界近代海戦史唯一の戦艦奪取作戦を立案する。

北蝦島政府海軍奉行・荒井郁之助を総司令官として、回天・蟠竜・第二回天(旧高雄)3隻で宮古湾に集結した新政府艦隊信号艦(旗艦)・甲鉄の奪取にあった。

 アメリカ北軍海軍が、南北戦争用としてフランスに発注した艦体を鉄板で覆った全長48/全幅9メートル・大砲4門(うち300ポンド・アームストロング砲1門)とガトリング砲(手動機関砲)1門を備えた「スフィンクス」は、南北戦争集結と同時に不要となり、「ストーン・ウォール・ジャクソン」と名を変えてそのアメリカが幕府に売り込んだ。

幕府「開陽」「ジャクソン」の2隻で東洋最強の艦隊を画策、早速購入しその代金を支払ったが、当の船が日本に到着した頃には鳥羽伏見で薩長軍と幕軍は戦争を始めていて、「局外中立」の立場を取ったアメリカは、榎本和泉守武揚の再三の引き渡し要請を拒んだのである。考えなくとも代金支払い済みの商品を抱えたまま引き渡さずに、風見鶏を決め込むなど言語道断ではあるが、江戸無血開城となった以降、新政府は別途代金を支払って「購入」した。他人の所有物を渡さないばかりか、別の客に売り付けるなぞ盗人猛々しいにも程がある。が、誰もその責任追求をしなかったのだ。(後年、東京や北海道に鉄道を敷設した際も米英商人は購入キャンセルとなった物資を無割引で売り付けているとの記録もある)

 既にこの頃から日本外交の弱腰はスタートしたと言えるが、それは別としてその「ストーン・ウォール・ジャクソン」こと「甲鉄」を、木造コルベット軍艦で奪取すると言う作戦は、一見卑怯にも無謀にも見えるが、これは戦時国際法に記された「アボルダージ」戦法と言う公式戦法である。

 明治2年3月20日(西暦1869年5月1日)、箱館を出撃した北蝦島政府アボルダージ作戦部隊は途中、嵐に遭い蟠竜は流されて、第二回天は突撃直前に機関が故障し、回天1隻での突撃となってしまった。

3月25日未明、回天甲鉄に直角に突撃し接舷し、土方歳三を始め新選組最後の隊長・相馬主計や流山から板橋まで近藤に同行した野村利三郎等が乗り込んで、斬り込みを掛けた。(土方は回天には乗艦していなかったとする説もあり。)その壮絶無比な戦闘は新政府艦隊・春日三等士官をしていた東郷平八郎(後の海軍連合艦隊司令長官)はその衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として対馬沖海戦(日本海海戦)のヒントとなったと言う。

 ガトリング砲の反撃で回天艦長・甲賀源吾は額などに被弾して即死、野村利三郎を始めとして突入部隊は壊滅的損害を出し、わずか30分で回天は撤退した。回天と甲鉄は甲板の高さに差があって、回天から飛び下りた斬り込み部隊の多くが足を挫き、そこをガトリング砲で狙われたと言う証言もある。

不運は、追跡して来た新政府艦隊・春日(新政府艦隊で、出撃体制にあって艦砲合戦がまともに出来たのは春日だけだった)が機関故障中の第二回天を田野畑沖で発見し砲撃、第二回天は座礁し、フランス人連隊顧問を含む多くが戦死した。(座礁して上陸した乗員を西軍兵が虐殺したと伝えられる。徳川海軍艦隊では、勝麟太郎義邦(海舟)が訪米時に乗った「咸臨」が駿河の海岸に座礁、乗員が虐殺された事実がある。)尚、蟠竜回天は後に合流し、二隻共に翌明治2年5月の戦闘まで生き残り、最期は函館湾で座礁・沈没している。

 第二回天元秋田藩軍艦「高雄」で、箱館で榎本達徳川軍に拿捕された船である。徳川軍はこの高雄の乗組員を艦長以下全員殺傷させずに青森に返送した。戦時国際法では常識とされている捕虜の取り扱いだが当時の日本では異例の措置だった。その第二回天はこの甲鉄奪取作戦に参加の際に宮古北方の田野畑に座礁したもので、殆どの乗組員は上陸後に虐殺された。この取り扱いの違いが「天下の官軍」「蛮族の行為」と評価させ、後日榎本達の助命嘆願一因となる果を生むのである。

 「宮古湾海戦」国際戦史にも記録されたこの作戦は、近代戦史では東洋では唯一のもので、今日は海水浴客で賑わう浄土ヶ浜にその面影は無い。

 宮古市は人口5万5千人の漁業基地の街。昔から港町として栄えた。三陸観光のベースとして便利な街で、しっとりと落ち着いた雰囲気が味わえる。

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宮古市宮古市役所/0193-62-2111

宮古観光協会


宮古湾海戦の史跡は碑があるだけだが、野村利三郎(或は大塚浪次郎)の墓と言われるものが市内藤原三丁目観音堂横に残っている。これは海戦後に海岸に漂着した首無し遺体を地元・松崎の大井要右衛門が埋葬・建立したもの。この他にも西軍兵墓や戦蹟碑が残っている。

宮古湾海戦記念碑

(宮古駅から岩手県北バス15分170円「浄土ヶ浜」)

 海水浴場として名高い浄土ヶ浜御台場展望台の入口に、昭和43年に作られた。

<浄土ヶ浜展望台入口>

幕府軍艦「高雄」記念碑

(三陸鉄道北リアス線田野畑駅徒歩20分)

 ホテル羅賀荘の前にひっそりと立つ記念碑がある。この船は元々秋田藩のスクリュー汽船で原名アシュロットと言った。徳川北行軍が箱館を制圧した後にうっかり入港して拿捕され、「第二回天」と改名された。

<高雄記念碑>


JR東日本・山田線 盛岡〜宮古間他JR東日本JR東日本盛岡支社

→上野駅から東北新幹線盛岡駅で山田線乗換、宮古駅。

三陸鉄道・北リアス線 宮古〜久慈0193-62-8900

岩手県北バス 0193-64-6060

※このページは宮古市御提供の資料により拡充・訂正させて頂きました。


宮古へは直通夜行バスを!

 品川から出ている京浜急行電鉄・岩手県北バスの夜行バス「ビーム1」は浄土ヶ浜まで直行して片道9170円。新鮮な海の幸やリアス海岸の景観も堪能して頂きたい。

 また、三陸鉄道北リアス線を使えば八戸・青森は直ぐ!足を延ばして函館・江差・松前と言うルートや、三陸鉄道南リアス線を使って仙台へ抜けて、その後会津へ・・・と言うルートもあり、土方達幕軍を辿る旅には欠かせない場所でもあります。


幕末機動警察隊・新選組