徳川幕藩体制初期に本領の米沢を追い出された伊達三郎政宗が築いた商業都市が仙台で、最大時62万石、廃藩置県当時には藩主・伊達宗基が28万石の城下町として大いに栄えて居た。
新選組総長・山南敬助知信はここ仙台の出身と言われる。生まれたのは天保4(1833)年か天保7(1836)年の説があるが、北辰一刀流千葉道場の門下だったが、近藤達試衛館の食客として武州多摩に剣術指導に出掛けた記録もあり、「試衛館グループ」に属する人物とされている。
浪士隊として京へ上洛後、芹沢・新見・近藤の3局長体制の下では土方と同等の「副長」だったが、後に主任参謀格の「総長」に昇格、しかしその実は「左遷」とも言うべき人事だった様である。
山南はどちらかと言うと生真面目で学者肌の温和な人物だったと言われ、当初の屯所だった八木・前川家で読み書きなどを教えた。ただ、理屈っぽい処があり、家人も土方も苦手としたらしいが、物静かで物知りと言う山南の人柄は広く受け入れられている。
伊東甲子太郎武明が参画して以降は「隊きっての学者先生」の陰も薄くなり、更に政治情勢が激変する中で自己の存在も見失い気味になった様で、一説には土方との確執とも言われるが突然隊を脱走した。試衛館からの古参で最高幹部の脱走は隊内に衝撃を与えた様だが、沖田総司房良が後を追って近江・大津で発見し、屯所に連れ戻されて数日後の元治2年2月23日(西暦1865年3月20日)に前川邸屯所で切腹した。その遺体は壬生光縁寺に手厚く埋葬されている。その後の混乱と悲劇を見ずに逝った事は幸か不幸か、案外と頑固で自己主張の強い仙台人らしい山南敬助藤原知信の「らしい幕引」ではあった。
島原の遊女・明里との悲恋はロマンチックではあるが、創作とも言われる一方で、一本気仙台人気質バリバリの文武両道男が、恋に一途になる事も想像には難く無い。更に土方の様な江戸っ子気質バリバリと衝突もしたろうが、幾つかの記録に「処刑」的記述が無い事から、一種「自決」だったのかも知れない。明確な記録は無いが、豊玉の俳号を自称していた土方が一首を書き残している事から、彼の惜別が推察できよう。
慶応4年閏4月22日(西暦1868年6月12日)にそれまでの態度を一変し、東北・北陸諸藩には強硬な姿勢を示した新政府に対し仙台伊達・会津松平・米沢上杉等25藩が締結した軍事同盟で、更に5月3日長岡牧野藩等6藩も参加して31藩が参加したのが「奥羽越列藩同盟」で、一部には皇族(輪王寺宮能久親王=東征軍総督・伏見宮嘉彰親王の一才下の実弟)と徳川血縁者(徳川慶喜の実弟・昭武=水戸藩主との説がある)を迎えて「東北連合国」を建てるとの構想もあった。
実際には圧倒的な軍事力の西軍が明治元年9月22日(西暦11月6日※9月8日に改元)に会津若松城を落として会津藩が降伏すると、雪崩の如く各藩で同盟から脱退して新政府に恭順し、10月12日には主力の仙台藩も続き「東北連合国」も奥羽越列藩同盟も消滅したが、会津藩以上に軍事力を有した仙台藩は西軍の脅威ではあった。
土方が新選組を率いて仙台に到着した榎本和泉守武揚と仙台城に9月3日に登城、その直後9日に新選組本隊も仙台に移動し、結局恭順した仙台・折ノ浜海岸から幕軍3千と共に蝦夷に10月12日(西暦11月25日)向かう事となった。
仙台市は人口97万5千人の宮城県県都であり、東北最大で唯一の5区を抱える政令指定都市として大発展している。
仙台市仙台市役所/022-261-1111 総合観光案内所/022-222-4069
○青葉(仙台)城022-227-7077(営業9〜17時)
(仙台駅から市バス15分250円「青葉城趾」)※入場料700円
再建された青葉城は、郷土資料館などを併設し、市内が一望出来る。戦略の天才と言われた伊達政宗の夢の遺産である。
○JR東日本・東北本線 東北新幹線で上野〜仙台間最速1時間30分。その他東北本線・常磐線等が利用出来る。JR東日本JR東日本仙台支社
→上野駅から常磐線特急「スーパーひたち」で仙台駅/上野駅から東北新幹線で仙台駅。
季節により首都圏から夜行臨時快速が仙台まで直行します。
○東北急行バス03-3529-0321
(東京・上野〜仙台まで安価な高速バス・6210円/夜行・昼行有り。)
○仙台市交通局022-224-5111
夜行バスの活用が「仙台観光」の秘訣
東北急行による夜行バスが仙台観光の秘訣。実は京成バスが西船橋・松戸から仙台まで夜行バスを運行しているのだが、松戸から常磐線で上野へ戻ってから東北急行を利用しても、1食分以上の余りが出る程京成便は高額で、また1便に使用される台数も多客時には増強されるので是非東北急行夜行バスを利用されたい。