歴史と伝統の地・会津は、古くから東北の要衝として重要視され、戦国時代には蘆名氏が黒川城(後の会津若松城)を拠点に抑えた土地で、豊臣秀吉の頃に東北最強の軍略家・伊達政宗が奪取したものの小田原遅参の不興を買って召し上げられ、蒲生氏郷・上杉景勝・加藤嘉明と領主を変えて徳川家光(第三代)の頃、庶弟保科正之が入り、後に松平家を名乗った。会津は23万石だが、この外越後魚沼に13万石(幕府直轄領)を持ち、松平肥後守容保時代には実質36万石の大名だった。
会津藩恭順後に容保は家督を容大(徳川喜徳・元水戸藩主徳川斉昭の実子で水戸藩主・徳川昭武や徳川慶喜の実弟)に継承、領地は斗南(現在の青森県)に移封され、廃藩置県当時には斗南藩3万石と10分の1となっている。(明治8年9月21日まで会津若松は「若松県」の県都だった。)
会津松平藩は幕府の東北方面駐在軍的役割も担っていた事からか尚武の心意気が盛んで、同時に農商業や工芸を奨励し今日も生き続けている。
幕府では京の行政機関として所司代を置いていたが、大老・井伊掃部介直弼の暗殺以降激化した治安悪化に対して今日で言えば警察軍を新設した。これが「京都守護職」で、その役目を松平肥後守容保が引き受けた事が会津の悲劇の発端とも言われるが、忠節を藩是とした会津藩だからこそ受託出来た事とも言える。
守護職の役料として5万石の加増があったとは言え、まさに今日イラクに1千名の警察軍を派遣するのと同様で、その経済負担が会津藩軍の装備近代化を遅らせた。
禁門の変で賊軍となった(実際、御所に向けて発砲した)長州こと毛利藩(周防・長門国)が薩長同盟で友軍となった薩摩へのストレスを、会津に絞って来るのは必至の事で、土方も大鳥圭介も幕府西洋医学所頭取・松本良順もこぞって会津に向かったのは、一種の私的怨念を予想しての行動だったのだろう、もっとも新選組の会津行は「松平肥後守御預・新選組」として世話になった恩義からの自然な行動と考えられる。
慶応4年8月22日(西暦1868年10月7日)、母成峠を突破し城下に迫った西軍は、非戦闘員にも虐殺や暴行・略奪を行い、殊に長州藩兵は禍根を晴らす(とは言え元々自分達の無策失策=理不尽な攘夷政策が自分達を賊軍としたものであり、逆恨みも良い所だが)為か残虐非道の極みだったと多々記録や証言が残っている。本来、勤王の志の強い松平肥後守であった故に厳しい取締=正当な治安維持・警察活動をしていたのに政治的工作で賊軍の汚名を着せられて、後世に逆賊と罵られる事は苦渋であったろう。それ以前として西軍の横暴は一世紀以上を過ぎて尚、禍根として会津に残る事を「器が小さい」と誰が非難出来るのだろうか。
会津藩にも藩校「日新館」があり、平時から軍事訓練や戦術・教養の教育をしていた。この藩校有ればこそ短期間にフランス式陸軍編成法に独特の手法を加えて、年齢別組織体制として軍政改革を成し兵数三千、その中の少年兵部隊が有名な白虎隊で、士中二番隊18名が飯盛山で自決したのが8月23日の事である。
また同日には家老・西郷頼母の一族21名が足手纏いになってはならぬと自決したのを始め、城に入れなかった老人・子供・女性の多くが自決している。更に、城内では女性の部隊も編成され、食事や看護だけでなく、戦闘にも加わった。この潔さと心意気に薩摩兵の中には大山弥助(後の陸軍卿・大山巌)の様に、「嫁に取るなら会津の娘」と決意した者が少なく無かったと伝えられ、「会津こそ武士の鑑」と言わしめたのである。
内藤隼人(土方歳三)は仙台藩に援軍の使者として赴いていた明治元年9月22日(西暦1868年11月6日)、「これ以上、民に苦渋は忍びない」と松平肥後守容保の決断で降伏・開城し、残存幕軍は裏磐梯を越えて仙台に転戦、その直後に仙台から海軍に合流して蝦夷に向かうものとなる。強剛の会津兵ではあったが、用兵運用の誤りと何より物量・最新式兵器の前に惜敗したのである。
ちなみに宇都宮城攻防戦の際に足に鉄砲玉を受けた内藤は、東山温泉で湯治をしたと伝わっている。「近藤勇残首」の報告を聞いていた内藤・・・と言うより土方歳三は、東山の天寧寺に近藤の墓碑を建立している。実際は短期の滞在でその建立を見届けてはいない様子なのと、戒名は松平肥後守容保が付けた事から、後々容保や旧会津藩関係者が懇ろに奉ったのでは、との説もある。
しかし、全国にある近藤勇墓碑のうち、幼い頃からの盟友が盟友の為に作ったこの墓ほど、霊魂が籠った墓碑は無いのではないだろうか。
恭順した会津松平家は津軽地方斗南に移封されて、明治4年7月14日の廃藩置県時では「斗南県」、9月9日には「弘前県」、23日には「青森県」となる。この頃松平肥後守容保は家督を容大に譲り隠居、後年は日光東照宮の宮司として静かな余生を送っている。
一方の会津若松は「新政府占領地」となり、明治2年5月4日に「若松県」、明治9年8月21日に「福島県」に統合されている。その後日本鉄道が奥羽越基幹鉄道を構想した際に、那須から奥塩原・会津田島・会津若松・喜多方・米沢・山形・秋田を経由したルートが浮上、結局東北本線が郡山・福島・仙台を経由し建設されると、独自に宇都宮〜会津〜米沢間鉄道「野岩・岩羽線」の実現運動が起こった。
それは日本鉄道が会津を経由する鉄道に関して「黙殺」した反動とも言われているが、会津や磐城平の人々が中心となって岩越鉄道株式会社を設立、平〜郡山〜新津間(現在の磐越東線・磐越西線)が具体化していた時期でもあり、南奥の要衝・会津若松を「東北鉄道の要衝」としたい「会津人の誇り」がそうさせたのは想像に難くない。
この「会津縦貫鉄道」建設運動は、会津若松〜会津滝ノ原間を「会津線」、喜多方〜熱塩間を「日中線」として実現させた。「会津線」は後に東武鬼怒川〜会津高原(旧会津滝ノ原)間に新設した「野岩鉄道」と接続して第三セクター化され「会津鉄道」として今日も残るが、日中線は昭和59年3月31日に国鉄赤字ローカル線整理廃止第2陣として廃止された。廃止のその日まで、開業した当時の全便機関車牽引客車列車のスタイルを貫き、鉄道ファンに愛された鉄道だった。
鉄道のみならず、高等学校や官庁施設などを始めとして社会基盤整備でも会津は立ち後れていた。それは「薩長藩閥の嫌がらせ」と言う古老は非常に多い。その割に「薩摩人」は会津人からそれ程嫌われていないのは単純に不思議な事だが、寡黙・生真面目で人情に厚く・直情一徹・頑固だが一度理解しあうと家族同然、絶対信用の付き合いをする・・・実はそんな人間性が薩摩と会津の共通した点であり、先の大山弥助の様な「薩摩の会津ファン」を生み、会津人が薩摩人をそれほど嫌わない理由なのかも知れない。
戦後、荒れ果てた会津若松城は棄却され、「鶴ヶ城」と言われた美城は消えたが、昭和40年になって再建され、現在は郷土博物館として美しい姿を留めている。
会津と言うと磐梯山、と言われる程の名山だが、本来は「会津富士」と言われた程の美しい裾野を持った山だったらしい。明治21(1888)年7月15日午前7時45分に始まった噴火は21日に大爆発を起こし、477名の犠牲と北面の嶺を吹き飛ばし、檜原・小野川・秋元湖をはじめとする無数の湖沼群を出現させたのである。故に、土方達が見た「磐梯山」と今日私達が見る「磐梯山」は違う姿なのである。
今日の会津若松市は11万6千人で福島県内4位の人口を抱える「酒造と工芸と温泉」の街で、市内に東山・芦ノ牧の大形温泉地を誇る観光都市でもある。街のそこここに明治〜昭和の近代建築も数多く見られ、幾日居ても飽きの来ない何故か「懐かしい」街である。
会津人は頑固である。観光地には似つかわしく無い様にも思えるが、一度受容されれば家族同様の慈愛を掛け値無しで向けて呉れる。その深くて厚い人情と真直ぐな心意気は土地の清酒の味わいに似て、そこに会津魂が今日もしっかりと生きているのが味わえるのも不思議である。
会津地域の15市町村内鉄道・バス(一部制限あり)が2日間2600円で乗り放題!更にイベントや飲食ショッピングでの割引・優待もあります!(JR東日本のみどりの窓口他と主要旅行会社で発売=引換券。会津エリアのJR東日本駅等で引き換えます。)
会津若松市会津若松市役所/0242-39-1111
あいづ観光情報館(会津若松市ホームページ)
財団法人会津若松市観光公社
財団法人白虎隊記念館
会津若松観光物産協会0242-24-3000
會津復古会
会津新選組同好会0242-24-3000
会津若松、新選組史跡めぐり
会津は数多くの史跡が残る街で、何より多くが「現役」。歴史の中でしっかりと生きている土地なのだ。
○鶴ヶ城0242-27-2005(営業8時30分〜17時)
(会津若松駅より会津バス「鶴ヶ城北口」「鶴ヶ城南口」下車)※入場料400円=天守閣
再建された若松城。天守閣からの眺めは最高!東山温泉にも近く是非宿泊して巡りたい。
○野口英世青春館(會津壱番館)0242-27-3750(営業8〜20時)
(七日町駅から徒歩15分※会津バス「野口英世青春館前」下車)※入場料100円
明治17年築造の旧会陽医院。幼少の野口英世が火傷の手術をした所で、1階は喫茶室。
○野口英世記念館(猪苗代町)0242-65-2319
野口博士の生家が保存されている。生涯から研究までを紹介。
○会州一蔵品館0242-25-0055(営業8時30分〜17時)
(会津若松駅より会津バス「相生町」下車)※入場料300円
江戸時代築造の会州一酒造蔵元。試飲は勿論、会津の伝統工芸品の展示も。
○天寧寺0242-26-3906
(会津若松駅より会津バス「武家屋敷前」下車「会津の歴史を訪ねる道」徒歩15分)
内藤隼人(土方歳三)が発願した近藤勇の墓が裏手にある。天寧寺と墓所は離れていて、松平肥後守容保の墓所と隣接している。山の上にある。
<天寧寺墓所/松平家墓所>
○母成峠
(母成グリーンライン<自動車道>途中)
慶応4年8月21日に奥羽越列藩同盟軍と西軍が激突した古戦場。内藤隼人指揮の東軍800名は奮戦したが、西軍2000名の攻撃は凄まじく、内藤隼人や大鳥圭介は撤退している。
<母成峠>
また、会津若松に来たら忘れてはならないのが喜多方。武家=軍事都市の若松に対して商業都市として、また出羽・越後に対する防衛拠点として会津繁栄を支えたのですが、近年では札幌・博多と並ぶラーメンの街と蔵の街として有名になりつつある。
○白虎隊記念館0242-24-9170
(会津若松駅より会津バス「白虎隊記念館」20分)
○武家屋敷0242-28-2525(営業8時30分〜17時)※入場料850円
会津武士の心意気を今に伝える家老屋敷・西郷頼母邸を中心に、重文の旧中畑陣屋や数寄屋風茶室、藩米精米所と会津歴史資料館が並ぶ屋外博物館です。
(会津若松駅より会津バス「武家屋敷前」15分)
○東山温泉
(会津若松駅より会津バス「東山温泉」20分320円)
○会津東山・不動滝旅館0242-26-5050
(会津若松駅より会津バス「東山温泉」20分320円/送迎等有/要予約)
会津若松市街地に近接する一大温泉リゾートでひときわ光彩を放つ「内藤隼人(土方歳三)所縁」の湯。宇都宮城攻防戦時負傷した内藤が東山温泉で湯治をしたと言われる。また、日帰り入浴もあり、新選組史跡探訪の他、SL撮影・乗車のファンにも是非お勧めしたい。ちなみに専務さんは会津藩重役の御子孫!
○芦ノ牧温泉
(会津若松より会津鉄道「芦ノ牧温泉」20分580円)
○JR東日本レンタリース0242-24-5171
会津若松駅構内にあるレンタサイクル。2時間まで500円、1日1500円 8〜19時・無休
○末広酒造0242-27-0002
会津若松の銘酒「末広」の蔵元。土蔵内に喫茶室(定休水曜・9〜17時30分)がある。
○鶴乃江酒造0242-27-0139
「会津中将」の蔵元。冬期限定「会津中将にごり酒」はがっしりとした味で局長推薦。
○五郎兵衛飴総本舗0242-22-5759
何と源九郎判官義経の借用書が伝えられると言う。素朴な味わいに800年の重みが!
○JR東日本・磐越西線 郡山・新津〜会津若松間他JR東日本仙台支社
→上野駅から東北新幹線・郡山駅から磐越西線乗換で会津若松駅。
○会津鉄道 会津若松(西若松)〜会津高原間0242-28-5885
→上野駅から地下鉄銀座線浅草駅で東武鉄道伊勢崎・日光線乗換、新藤原駅で野岩鉄道乗換、会津田島駅で会津鉄道乗換、会津若松駅。
ワンクッションアクセスで浅草〜会津が便利になりました!
(東武鉄道・浅草からの継送便や割引きっぷもあります。東武鉄道)
○会津乗合自動車(会津バス)0242-22-5555
○SL会津只見号(只見町総務企画課)
○磐越西線SL運行推進協議会
多様なルートが魅力の会津
会津へは
1・東北新幹線か東北本線(日によっては新宿から直通快速)で郡山経由磐越西線ルート
2・上越新幹線か上越線(夜行快速もあります)で新津から磐越西線ルート
3・上越線で小出から只見線ルート
4・浅草から東武鉄道・野岩鉄道・会津鉄道、会津田島乗換ルート
5・新宿から高速バスルート
と首都圏から5つもルートがあり、また会津でも蔵とラーメンの街「喜多方」、猪苗代湖、裏磐梯と観光スポットが取り囲み、更に東山・芦ノ牧と2大温泉街を抱えて、会津若松駅前にはビジネス用の低価格高品質の宿が連なっていて、まさに観光都市です。
史跡・景観・酒・温泉・味覚・工芸品と逸品が詰まった会津は、やはり遠方から来る旅人には楽しめる街です。(但し山口県の方は絶対に冗談でも御自分が山口の人間で有る事は極秘に!本当に洒落に成りません。)
青春18きっぷシーズン以外では、東武ルートがお勧め。片道5000円でお釣が来てしまい(但し急行等では別途料金要)、更に奥鬼怒・南会津の渓谷を堪能し乍らの旅は飽きを感じさせませんし、今市から会津若松のルートは、土方歳三達が辿った道とほぼ一緒。
☆会津の観光には「会津ぐるっとカード」がお勧め!<発売期間・平成18年3月31日まで>