北蝦島政府首都・北の星に男達の夢は今も生きる

 青函連絡船の街・北海道の玄関、函館。幕末に国際港として開港した箱館は後に函館と改称している。

 市街地から離れた処に在る五稜郭は、武田斐三郎が設計し安政5(1858)年から6年間を費やした日本で2つ・しかし最大の西洋(フランス)式城郭で、函館開港に際して防衛拠点として築造され、ここには箱館奉行所が置かれていた。

 箱館は当時1万5千人三千世帯と各国領事館が並ぶ都市で、幕府直轄領だった。

榎本和泉守武揚・土方歳三義豊・松平太郎正親ら徳川幕府軍が太平洋岸の鷲ノ木に明治元年10月20日(西暦1868年12月3日)上陸して、同月26日五稜郭に入城した際には松前藩等の守備隊主力は既に脱走しており、わずかな負傷兵が残っていた。幕軍に随行していた医師の高松凌雲は欧州留学から帰国したばかりで、赤十字運動に感化されていた事もあり、また榎本の「国際的に通用する政体」とする主旨もあり、この西軍負傷兵は治療され後日外国商船で青森の西軍に送り届けられている。

 奥羽越各地で西軍が起こした負傷兵や捕虜の残虐な仕打ちや、市民への略奪や暴行・殊に横行した集団強姦等から比較しても脱走幕軍の品位の高さは際立つ。更に函館陥落直前に起こった長州・薩摩兵を主力とした新政府軍による箱館病院高竜寺分院の負傷兵虐殺事件は、後のアジア各地での日本軍の蛮行を予告している様でもある。

この脱走幕軍には桑名藩主・松平越中守定敬唐津藩主・小笠原壱岐守長行幕閣・永井玄蕃頭尚志等の幕府幹部、ブリュネ・カズヌーブ等ナポレオン三世派遣の軍事指導顧問団士官も加わって、まさに「最後の侍勢力」とも言えるがフランス顧問団の参加でフランス式軍事訓練も習得した当時最精鋭の武闘集団だった事も確かである。

 この年の12月15日(1869年1月27日)に五稜郭で各国領事が参加して蝦夷地平定と北蝦島政府の祝典が開催され、これに先立って士官以上とは言え日本最初の「選挙」(入札)により閣僚人事が発表された。

内藤隼人こと土方歳三はこの中で陸軍奉行並として名を連ねた。今で言えば北海道警察本部副本部長と言う職に相当するだろうか。

 後に幕末・英国公使館書記官だったアダムスは自著「日本史」に「パプリック・オブ・エゾ」=直訳すれば蝦夷共和国、と表記したが、これは榎本が自分達は身の置所を失った旧徳川幕府家臣であり、その生活の場を確保すべく「自治権」を持った政府である、と主要国に主張した事からの事と思われる。「オーソリティズ・デ・ファクト」(交戦権団体)であると英仏領事が容認した為「蝦夷独立共和国」と解釈されるが、榎本が江戸を出航する際に公告した檄文に「長く皇国の為に一和を開かんとす」とある事や、あくまでも国家元首は「帝」としている事から推察すれば、「北蝦島政府」とは「北海道庁」程度の「地方自治体」としていた事が自然に解る。しかし、欧米留学と国際関係法規に精通していた榎本は、英国やドイツ等で見られた強い自治権を持った「州」的スタイルの「地方自治政府」を指向したと推察され、それは公文書に押印された公印が「北蝦島政府」とある事に裏付けられる。

 西軍は山田市之丞(長州毛利藩士・蝦夷征討軍陸海軍総参謀、後の司法大臣で日本法律学校=日本大学創立者となる山田顕義)・黒田了介(薩摩島津藩士・蝦夷征討軍陸軍参謀、後の北海道開拓使長官・第二代内閣総理大臣となる黒田清隆)を実施指揮官として翌明治2年4月9日(西暦1969年5月20日)から上陸・討伐を本格的に進め、圧倒的物量と最新鋭の艦砲で幕軍を追い詰めた。しかし、二股口箱館山で思わぬ苦戦を強いられ、更に5月2日前後に榎本陣頭指揮による七重浜・新政府軍本営の奇襲で斬り合いになると断然脆弱な「官軍」である事が露呈し、山田市之丞(陸海軍総参謀=実質司令官)は鉄砲と大砲による消耗戦へと切り替えている。

その主力はやはり新選組・衝鋒隊(古屋指揮)・彰義隊で、土方が指揮となると大いに士気は上がったと言う。5月11日には西軍は箱館市街地と箱館山を占拠、孤立した弁天台場の救援に向かった土方は朝四ツ半(西暦1869年6月20日9時頃)一本木で銃弾を受けて戦死した。(他説も有り)享年35歳だった。不思議とその遺体の埋葬場所は今日も不明である。

 一部記述には「幕軍幹部では唯一の戦死者」と見受けるが、日本で最初に本格的英語図書翻訳をした高松凌雲(箱館病院長)実兄古屋作左衛門(陸軍第四連隊長・35歳)は5月12日に五稜郭で、砲術と語学と俳句に長けた中島三郎助(箱館奉行並・47歳)は5月16日に2人の子息と共に千代ヶ岡台場で、また隻腕の天才美剣士・伊庭八郎(第一連隊第二大隊長)は木古内で戦死するなど、幕軍幹部の戦死者は多い。中でも中島親子の壮絶な戦死を悼む事からか、その場所は現在も「函館市中島町」として名を残している。

蝦夷征討軍陸軍参謀・黒田了介は恭順(降伏)を促しに榎本和泉守武揚に接触したが幕軍玉砕の決意は固く、直情一徹薩摩人の彼はその心意気に感激したとも。この折に榎本から贈られるのがハーグ大学教授・フレデリックスから贈与された「海律全書」(海上国際法並び外交について=フランス人オルトラン著作・宮内庁書陵部現存)で、黒田達はその学識に驚嘆したとも伝えられるが、榎本は蘭仏英露、古屋は英蘭仏、中島や土方も仏英と幕軍幹部の多くが外国語をかじって居たし、中島と土方は俳号まで抱えて漢詩も嗜んだと居たと言う事から、土方歳三の博学な一面幕軍幹部の学識の高さも垣間見える。

 5月17日に箱館郊外亀田村で黒田等蝦夷討征軍幹部と榎本・松平・荒井郁之助等北蝦島政府幹部が会見し、恭順を公式に確認し、戊辰戦争は終結した。

 維新後、一旦「函館県県都」となったものの北海道に統一され、道都は移ったが函館は商業・漁業の基地として栄えた。更に昭和63(1988)年3月14日に青函トンネルが開通するまで、青函連絡船の母港として名実共に北海道の玄関として道内有数の都市に発展した。

 昭和29(1954)年9月26日、未曾有の破壊力を持った台風15号に翻弄され、国鉄青函連絡船洞爺丸(死亡1051名・生存116名)、第十一青函丸(90名全員死亡)、北見丸(死亡70名・生存6名)、日高丸(死亡56名・生存20名)、十勝丸(死亡57名・生存17名)と5隻の連絡船と乗員乗客1324名(行方不明者との合計1430名)の犠牲を出し、1912年4月2日のタイタニック事故(死亡約1500名)に続く海難事故・・・後に洞爺丸事件と言われるが、案外知られていないのは「5隻沈没」と言う事であるが、その洞爺丸が座礁し転覆・沈没したのが榎本・土方達が奇襲した七重浜であり、その慰霊碑がある。

 函館市は札幌・旭川に次いで道内3位の都市で人口28万、水産と工業・観光の都市として発展を遂げて来た。石川啄木もこの地を大変愛していたと言うが、ふらっと訪れていつの間にか住んでしまう、そんな人を引き寄せる魅力がある。

 維新後、榎本・大鳥達が函館山麓に「碧血碑」、幕軍の慰霊碑を建立した。戦死者800余の名の中に土方歳三義豊野村利三郎義時の名も見える。土方や榎本達が夢を見た北の星・五稜郭は国内有数の歴史と観光の街・函館で現在も輝き続けている。

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函館市函館市役所/0138-21-3111

函館国際観光コンベンション協会0138-27-3535


函館は史跡が多く・・・と言うよりは、史跡の中に人が暮らす街と言うべきでしょうか・・・

五稜郭

(函館駅前から市電「五稜郭公園」徒歩10分)

 公園内には博物館分館もあり、5月は桜の名所にも。尚、博物館分館には箱館戦争当時の貴重な資料が多く展示・所蔵されている。博物館月曜・休祝日の翌日休館で9〜17時営業

碧血碑

(函館駅前から市電「谷地頭」徒歩5分)

 榎本達が建てた慰霊碑で、戦死者800余の氏名が刻まれている。妙心寺隣接。

函館区公会堂0138-22-1001(9〜19時/11〜3月・9〜17時 不定休)

(函館駅前から市電10分「末広町」徒歩10分・元町公園内)※入場料300円

 本格的西洋建築で、函館を代表する近代建築です。(国重文)

1階にはハイカラ衣裳館があり、明治時代風の衣裳をレンタル出来る。衣裳を着ての写真・ビデオ撮影も可!※レンタル料1着20分1000円

(9〜17時 11月中旬〜4月中旬は休み)

四稜郭

(函館駅前から徒歩5分・函館バス「松風町」から30分「神山通」徒歩20分)

 幕軍が五稜郭の外城として北3キロの地点に急造したもので、現在は基礎部分だけが残っている。

<四稜郭>

弁天台場跡=函館どっく現在もドックとして営業しているので立入は不可。

(函館駅前から市電「函館どっく前」徒歩分)

 新選組が主力だった弁天台場は後に函館どっく株式会社に。

中島三郎助親子慰霊碑住宅街の真ん中にあるので、周囲の御迷惑にならない様に!

(函館駅前から市電「千代台」下車、千代台公園裏徒歩10分)

 中島三郎助永胤親子の激烈な戦死を慰霊する小さい記念碑がある。街路樹帯の中にひっそりとあるので注意。函館税務署を目標とすると良い。※解り易い行き方/1・市電「五稜郭公園前」で下車、北海道銀行を目標に歩く。この時北海道銀行道を挟んだ反対の歩道を行きます。2・北海道銀行隣に本町交番があります。これを過ぎて青森銀行を目標に。3・青森銀行前を左斜前方(10時の方向!)に5分程歩くと千代台公園裏手に出ます。函館税務署に向かう広いグリーンベルト通り入り口に碑があります。)

<中島三郎助永胤親子慰霊碑>

土方歳三慰霊碑住宅街の真ん中にあるので、周囲の御迷惑にならない様に!

(函館駅よりタクシー又は函館駅より徒歩7分・総合福祉センター裏隣)

 土方の5月11日に戦死した場所については諸説あるが、この一本木説が多い。※解り易い行き方/1・国道5号線を函館駅前から五稜郭駅方向へ。2・国労ビル前から東(右)へ折れ、グリーンベルトのある通りの一つ目の信号を北(左)へ。/3・ステーキヴィクトリアを道の反対に見て進むと「若松」緑地。その一角にある。

<土方歳三最期の地慰霊碑>

二股口古戦場

 内藤隼人(内藤隼人)率いる部隊が激戦の末に官軍を退けた古戦場。胸塁跡がある。

<二股口古戦場>

函館明治館0138-27-7070(営業9時から20〜22時)

(函館駅前から徒歩5分)

 明治44年に建造された煉瓦造りの旧函館郵便局が飲食土産販売施設となっている。

レンタサイクル0138-52-8411(7〜16時 11〜4月は休み)

 駅内手荷物預かり所にて受付。3時間1500円・1時間延長ごとに100円。新選組・北蝦島政府史跡スポットは平坦地に多いので夏期はレンタサイクルがお勧め!


何も言えない!函館を味わうならまるまる4日は最低掛かる!

函館市青函連絡船記念館摩周丸0138-27-2500(営業9〜17時)

(函館駅より徒歩5分)※入場料500円

 国鉄青函連絡船の函館側記念施設。連絡船を知らない世代の人にも嬉しい演出が!

湯の川温泉街

(函館駅前より市電25分「湯の川」)

 幕軍負傷兵の療養施設が置かれた事から、古くから有名だった。石川啄木にも縁がある。

谷地頭温泉

(函館駅前より市電15分「谷地頭」徒歩3分)

 こちらは午前6時から営業の「銭湯」ですが、気軽さが旅師の人気を集めていた。

大沼大沼観光協会

(JR北海道函館本線で1時間「大沼公園」)

 壮大な駒ヶ岳を望み乍ら、レンタサイクルで大沼を一周!道南屈指の自然観光ゾーン。


何と言っても朝市が有名。しかし本領はいかそうめんといくら丼!

函館朝市「駅二」

(函館駅徒歩2分)

 観光なら駅二を最初に!朝市地区全体でスポットなのですが、狙い目は海産物の他果物も!

ラッキーピエロ

 市内に展開するファーストフードチェーン。個性的な店鋪と価格の割にボリューム有り!


函館は今でも交通の要衝で、陸海空揃ったアクセスが充実。青函連絡船無き現在も船便が徒歩・車共に使用できます。勿論世界最長57キロ850の「青函トンネル」を楽しむのも良い!

JR北海道・函館本線 札幌〜函館間他JR北海道函館支社

→上野駅から寝台特急「北斗星」「カシオペア」利用で函館駅/上野駅から東北新幹線・八戸駅から特急「白鳥」乗換で函館駅。

函館市交通局(市電)0138-32-1730

(市電一日乗車券・600円/市電バス一日券・1000円/2日間乗車券も有)

フェリーは3社あります。道南フェリーのみ徒歩旅客の事前予約は不可。運賃は三等1420円。(東日本フェリーのみ1850円)尚、フェリー乗場は

東日本フェリー0138-42-6251/東京 03-3535-0489

(函館〜青森・八戸・大間間就航。)430円高いけれど無料シャワーが付いております。

道南自動車フェリー0318-43-4545※自動車航送用

青函フェリー0138-42-5561


宿泊には困らない函館

 函館ほど「宿泊」に困らない街はありません。

 基本的に観光都市として数多くの宿があり、市内中心には破格のビジネス向け宿がありますし、湯の川温泉は道南屈指の温泉街、また大沼にもペンション・ホテルが多く、幕軍上陸の地に近い「流山温泉」には日帰り温泉施設の他に、JR北海道直営ホテルも。

 市内にはレンタサイクル(春〜秋まで)もあり、散策には最適ですが、市内バス・市電フリーきっぷも1日用と2日用があって好都合!

 お勧めコースは、朝なら谷地頭温泉で朝風呂、碧血碑を見学してから市電でどっくへ、旧弁天台場の面影を思いながら、市電通りを徒歩で・・・この周辺は近代建築の宝庫で、函館区公会堂で明治をたっぷりと堪能、市電で五稜郭へ行き、中島三郎助親子慰霊碑を探してから、市電で函館駅前へ戻って、土方歳三慰霊碑を・・・このコースだとほぼ6〜8時間、そして夜に成ったら函館山観覧のツアーバスで夜景を楽しみましょう!

 函館へは上野からの特急「北斗星」の他に、チープトリップの方には定番の浜松町〜青森間夜行バス&フェリーのコースもあります。


幕末機動警察隊・新選組