戦国末期、蠣崎氏が築いて豊臣秀吉から蝦夷の大名として認められて「松前氏」と改姓、3万石の大名となったのが始まり。「松前藩」は通称で、「舘藩」が廃藩置県当時の名称。
幕末の松前藩主は松前伊豆守崇広で、石高は3万石と言われていたが実質は10〜20万石相当の経済力を持っていた。寺社奉行から老中に抜擢され、「陸海軍総奉行」のポストで第一次長州征伐で問題処理を担当し、欧米四ヶ国の兵庫開港問題では老中首座の阿部豊後守正外(陸奥国白河藩主)と共に折衝を担当して開港決定をした。
松前藩は戦国期よりウタリ(アイヌ)との交易(と言いつつ搾取とも言うべき不平等取引を一部ではしていた)でかなりの収益を持ち、陰ではロシア等との通商も行っていた。幕末期直前にはそんな地元アイヌとの武力衝突を経験して、松前家は「実地」で外交交渉を体験したのである。
新選組隊士二番隊組長・永倉新八が属して居たのが「松前氏」で、明治元(1868)年末に急襲した幕府軍を避けて藩主・松前修広は脱出し、北蝦島政府(榎本和泉守武揚卒幕軍)では伊庭八郎が守備隊長としてここに赴いて居た。
松前藩軍は土方歳三指揮の徳川陸軍(=北蝦島政府)の攻撃を受けて一旦は津軽へ逃走したが、翌年の西軍上陸作戦に際して日本海沿岸の乙部に上陸、江差守備隊との死闘を勝ち抜いてその加勢に乗って松前に殺到、軍艦からの援護射撃もあって松前城を奪還している。
維新後の廃藩置県で、明治4年7月14日に松前藩は「舘県」となり直後の9月5日、「弘前県」に併合され、9月23日には「青森県」になって翌5年9月20日に北海道開拓使管轄の「北海道」となる、つまりその間舘藩領は北海道では無かったのである。ここに「道内唯一の大名家」領地しての独特の経緯がある。
明治2年4月(1869年5月)西軍の攻撃を受けて苦戦した伊庭八郎率いる遊撃隊・彰義隊・新選組による第一連隊第二大隊は壊滅的敗退を喫し、箱根の戦闘で隻腕となった伊庭八郎が戦死している。
伊庭八郎は江戸御徒町(現在の台東区台東付近・国道6号昭和通り沿い)の心形刀流道場主八代目・伊庭秀業の子で、九代目伊庭軍兵衛秀俊の養子。「伊庭の小天狗」の異名と共に幕府遊撃隊士として名を振るった天才的剣士だったが、箱根の戦闘で左腕を失い、尚奮戦して名を揚げて蝦夷では遊撃隊長。江戸でも松前でも評判の美男子で、錦絵にすらなっていた有名人だったと言い、松前の古老の記録に「江戸から評判の美男が来たと言うので見物に出掛けた」とも。
また生家は種痘所とも言われた西洋医学所が直ぐ裏手で、ここの頭取が順天堂・佐藤泰然の次男で松本家に養子に出ていた松本良順だった事もあり、「北蝦島政府」主脳は勝・会津藩・佐藤泰然・新選組のキーワードで何処か繋がっていた事が解る。
永倉新八載之は、松前藩江戸上府取次役150石・永倉勘次の長男として江戸浅草三味線堀の松前藩上屋敷(現在の台東区小島付近)で生まれた。剣は神道無念流で、戦後に永倉新八は松前藩に戻り、医師の杉村氏の娘と結婚し養子となり、後に小樽へ移住し、大正4(1915)年1月5日に老衰で死亡している。
松前町は渡島支庁南西部に位置し、人口は1万2千人。静かな歴史の街は四季折々の美しい景観と、歴史を受け継いで来た誇りを秘めた笑顔に訪れる人を優しく出迎えてくれる。
渡島支庁松前郡松前町松前町役場/01394-2-2275
松前観光協会01394-2-2726
○福山(松前)城(営業4月10日〜12月10日の9〜17時)01394-2-2216
(函館駅から函館バス松前行き「松城」)
復元された松前城は桜の名所。天守から日本海を見渡せば気分は殆ど土方歳三義豊。
○函館バス 函館駅前〜松前間「快速松前号」3時間2090円(木古内からは1330円)0138-22-8111
(※函館バスでは、松前〜江差間バス便も有ります。2時間2290円)
→上野駅から寝台特急「北斗星」「カシオペア」利用で函館駅、函館バス松前行乗換で松前/上野駅から東北新幹線・八戸駅から特急「白鳥」木古内駅で函館バス松前行乗換、松前。
松前と江差はセットで巡ると便利です。青春18きっぷシーズンならば江差へ先行して、後に松前へ・・・日本海の壮大な雄々しさと、厳しい自然の中にこそ素敵な発見があります。
松前からの函館行バスは木古内駅も経由しますから、鉄道・バスと選択肢も豊富です。