このC623機が本線に復活した昭和63年4月29日午前9時45分頃、北海道鉄道研究会鉄道輸送警備隊の特派メンバーの一人として私は最後尾で御案内をさせて頂いておりました。

 そこへ腕章をした鉄道ジャーナル社の沖勝則カメラマンが通りかかり、

「いゃ〜大変ですね」

と優しく労って下さいました。

 後日、何処かの鉄道マニアが何を勘違いしたか何を恨んだのか、この沖カメラマンが発車前に、機関車を撮影していた他の鉄道ファンを押し退けて撮影し、その際に転落して怪我をさせた、と言い出し、大学講師を語り当時のJR北海道・大森社長に語ったと・・・

 鉄文協事務局にその話題が伝わったのは初夏の頃で、確認したいと言われて問われたのが冒頭のシーンでありました。

 後日鉄道ジャーナル社に呼ばれ、社長と面談した際に

「私、ちゃんと発車5分前には最後尾に居て、発車間際まで沖さんとお喋りしていましたが」

「それ、証言出来ますか?」

 詳細を伺い、全く怒髪天を衝いた私は即時快諾、結局この「大学講師」は神奈川県在住の単なるサラリーマンで、無論この「転落事故」も捏造だった事が証明されます。

 鉄道輸送警備隊が対外的にCIA活動をした始めがこれで、以来時折鉄道ジャーナル社や「現場」でお会いして談笑する機会が幾度かありました。

 昨年11月30日18時10分、未だ53才の若さで沖さんは急逝されてしまいました。

 あの奇跡の瞬間を、共に味わった方がまた一人・・・

 とかく蒸気機関車復活だの、鉄道サークルだのと言えば殆どは「楽しみ」が主です。

 そうで無ければ人は集まりませんし、大抵そこに直接関与する鉄道屋は居ませんから、やはり趣味的色彩の組織になってしまうものです。

 しかし交通文化連盟は簡単にそう行くものではありません。

 単純に足掛け30年、そして過ぎて、逝った人もまた多いのです。

 センチメンタルじゃ政治は動かない、と言った人が居ますが、そんな些細な人の思いが感じられない者に、どうして民意を感じられますか?

 そしてその意気と責務が感じられない者は、交通文化連盟に居るべきでは無い。

 人生の意気と機微、そして義が分からない者、それに動けない者は、夢を形にする創造力は弱い、それはわずかな人生経験で得た、そしてC623機で出会えた多くの人間から学んだ事である。

 その出会えた貴重な人の映像は、何処までも美しい「自然の呼吸」を感じさせてくれます。

 御冥福を深く深く御祈念申し上げます。

(2007/06/13)


 とある元国鉄職員(運転現場・機関士)の方からこんな御指導を頂いた。

 「君達は骨太過ぎて鉄道マニアには理解出来ないのでは無いか?蒸気機関車の復元とは言うものの、C623はJR北海道では無理だろう、そうなれば市民が主導で行うしか無いのであり、余り骨太だと今時の軟弱な青年達は尻込みするのでは無いか?」

 自分では気付かなかったが余りに「武闘派」色が強過ぎて確かに半端な鉄道ファンは寄り付かないし、現実として方針や視点に隔たりがあるのも事実である。

 そこで昔からの友人や、国鉄時代の先輩、C623機や鉄道趣味の関係無関係を無視して率直な御意見を伺う事とした。

 私の行動・活動の原則は「安全輸送」である。

 まぁ気になるもので色々図書・ネットでふらついていて改めて気付いたのだが、「ファンの心得」として安全は大原則である!との流れが出ているところと、全くそうでは無く自由、と言うよりは自閉症的なところと二極に別れてしまっている事である。

 以前、観光資源保護財団(現・日本ナショナルトラスト)の米山氏と会談した際に、

 「ボランティア活動は楽しくが原則です。でも貴方達の場合ちょっと肩に力が入り過ぎかな?まぁ責任を認識するかしないかの差で、責任を感じるから力むのだろうけれど」

と忠告を頂いた事がある。

 まだ年令が若かったから深く受け取らなかった点はあるが、未だボランティアと言う言葉自体が日本で市民権を得ていない頃の事で、それは衝撃だった。

 しかし、単に沿線でカメラを向けていれば満足と言える程気軽な動機でC623機に関わったのでは無かった、多分当時の仲間達は皆結構「人生を掛けた」ボランティアだった。

 これが第一理解されない、鉄文協ボランティア局の赤城氏はそれを明確に言って下さったが、彼自身も

 「でも輸送の安全と言われてもその現場に居ないからピンと来ない」(1989年7月)

 と本音を漏らしていた。

 ボランティアは無責任ではいけない、故に直接人命に関わる「交通」に向き合うボランティアには、「安全輸送」がどれだけ困難で、どれだけ真剣で、どれだけ充実感を得られるものなのか、やはり理解しなければ或はその努力をしなければ、続けられないのである。

 一度それを山下仁郎元小樽築港機関区検査長に伺った。

 「あんたは国鉄で、上野でそれを見て来たから言えるのだろうが、鉄道マニア含めてその現場でおっかない思いしねぇば、理解なんて難しい。」

 と一言で鮮やかに答えを出して頂いた。

 しかし、しかしである、それでそうですねと言う訳にはいかない。理解して貰える、少なくても鉄道マニアはC623機運行に不可欠な人材群の「母体」である。その努力を疎かにしていた事、これは非難されても甘んじて受けなければならない。

 更に、列車運行と安全輸送意識は一体なのだと言う事を地元の皆様、そして広く市民に知って頂かなければ実際に列車は動かない。

 放置しておけばまさに鉄道マニアと市民との隔絶が拡大し、支援者が皆無になって本来は当初「第一次計画」8年、「第二次計画」8年の計16年で施設や人材の整備を進めて、当初契約に持ち込んだ国鉄と北海道鉄道文化協議会の構想がわずか7年で破綻すると言う「二の舞い」になってしまうからである。

 最近、C623機再復活の御意見が複数多発にある。私の元にもメールや手紙が寄せられている、だからこそ慎重なのだ。鉄文協を総括する事も大事だが、例えばスポンサーから高額な給料欲しさに自己の存在アピールした一方で多くのメンバーに不信を抱かせた者や、わざわざ外部団体の顔役引っ張って来てセクト主義の幕を上げた者とか、自分の立場を利用して学生ボランティアの親分に収まる事に必死だった者とか、そんな脆弱な人間誰にでもある暗部を晒しても後進の道標にはならない。

 それよりは、如何にすれば国民共有の財産として蒸気機関車含む交通文化財が大切なのか、その文化財が地元に如何にすれば有益なのかをスムースに明示して理解して頂くシステムが必要なのである。

 ただ、今もう一度その「声」を聞くか、そして聞けるかが「夢の継承者」に求められているのは疑い無い。

 是非、皆様の御意見をお寄せ下さい、何がC623機復活に必要なのか、その本当の道が必ずあるはずなので。

(2006/01/14)


 このコーナーを御覧頂いた先輩から、「よくもまぁしぶとくC623!と言い続けているよね、住んでいるのもNPO法人の認証も千葉県なら、C62を千葉で!くらいの情熱でどうだ?」と言われた。

 函館本線・山線はC62機が走る路線では、元来無いのである。

 ロクニは平坦地の立派な幹線で、客車を沢山列ねて高速で疾走する為に作られた、まさに「特別急行列車用蒸気機関車」なのであって、25パーミル急勾配と急曲線が連なる山岳線のそれでは無いのだ。

 でも、やはり山線にはC62が似合う、と同時に全国の路線でその風の香り、山の峰線のカーブ、沢の音、四季折々に車窓を彩る木々や花々が違う様に、その路線に似合うカマ(機関車)とハコ(客車)がある。

 北海道に渡ったC62機は軸重軽減工事が為され、この為空転確率は爆発的に向上、おまけに自動給炭器が装置されているので運転も検修も独特の技量が不可欠だ。

 只見線にはC11機が客車3か4か位の編成が似合う。これが只見川鉄橋を渡って行く様は「奥会津」の香りが何処からか漂って来るし、小海線はC56機が客車2・3両で八ヶ岳を後ろに駆ける姿は可愛いと言うより凛々しい。

 その地域、土地の「独特の・・・」を理解し味わいしなければ蒸気機関車計画など作れるものでは無い、客寄せパンダで蒸気機関車を画策した「消滅・失敗蒸気機関車企画」の全部が何処か「適当」の「見えない筈の書かれていない筈の」文字が企画書から浮き出て見えるのだ。

 現在、交通文化連盟文化局交通部鉄道事業科で掌握している大小の蒸気機関車企画は36に上るが、かなり無茶なものが大半である。

 SLならD51、なんて単純なものや「町内の3駅の間を往復」なんて、無論地元は地域再生の切札として真剣に考えているのでしょうが、法規も実情も何より「独特の・・・」を無視した企画が、運転を実現させても5年持つかどうか・・・

 一方、鉄道イベント=何がなんでもSLと言うのは論外である。

 一発勝負のまさに「記念企画」ならばともかくも、似合わないものは似合わない=見苦しいのである。

 相撲界では朝青龍が凄い勢いだが、彼にセーラー服の女学生衣装をさせた様なもので、これがファン感謝イベントならファンサービスだが、場所の当日に国技館前をそれで歩けば「懲罰もの」である。

 電車路線を行く蒸気機関車、まぁ大井川鉄道程気合が有れば・・・と言うか大井川鉄道のあののどかな渓谷の風景は、上越線とも共通するが蒸機が似合う。これが通勤電車ですら130キロで疾走する常磐線国電区間なんかではむしろ公害だなんて言われかねない。つまり「似合わない」のである。

 千葉県内にも蒸気機関車が似合う路線はある。しかしC62機を引っ張って来られる路線は無い。むしろC623機ならば常磐高速国電区間を疾走させる気合で臨んだ方が良い結果だろうが、あくまでも一発勝負の2日程度「単発企画」での実現性だ。

 似合う・馴染むは「集客率」を左右する。全国で唯一と言うなら何でも有り、だが蒸気機関車は全国にある。その「ライバル」に打ち勝って御客様を取り合うには、イメージが何より重要なのである。

「たかがSLでそこまで熱くなるなよ」と言う彼にどっぷり2時間、「流石、四半世紀SLバカやってねぇなぁ」と破折した。

 それで優越感など味わえるものでは無い、その「大多数の無理解」を「一人の理解者」にする一対一の対話こそ、本当に「文化運動には不可欠」だと言う事を痛感した秋の午後だった。

(2005/11/28)


 某民放の特別番組枠ドラマで16才で逝った少年の物語があった。

 これに近い事があった。

 彼は在来型一般車、俗に旧式客車と呼ばれる列車の大ファンで、鉄道模型メーカー勤務時代の先輩だった。

 電車の運転台そのままのコントローラーや、緻密な在来型一般車など彼の「作品」は多く、またファンも多いと伺った。

 その先輩が幾度か団体専用臨時列車の「御客様」として参加されて、そんな縁で鉄道模型から離れた後も時々交流があった。

 そのメーカーが過去にC62機を発売した事があって、一度「C623機復活仕様」を企画した事があったと伺った事がある。

 本物のそうなのだがNゲージ(縮尺150分の1・軌間9ミリ)鉄道模型にしろHOゲージ(縮尺80分の1・軌間16.5ミリ)鉄道模型にしろ、蒸気機関車は点検も修理も手間が掛かる、それ以上に製造にはコストが掛かる、何せ部品数が電車の倍以上、他の産業から比較して・・・比較にならない程市場規模の小さい鉄道模型の世界では大量生産によるコスト減はかなり困難なのだそうである。

 先輩氏も幾度か渡道してC623機を撮影したり乗車したりしていたもので、その実現はかなり真剣に取り組んだものの実現には至らなかった。

 ある時ばったり都内で御会いした時、

「よ〜もうC623はダメなの?どうしようも無いのかなぁ・・・」

 嬉しくなった、と同時に申し訳が無くなった。

「いやいや、お前が謝るもんでもねぇよ・・・でもさ、死ぬ前にもう一度乗りたいよなぁ・・・重連ならさ、なお良いんだけどなぁ・・・」

「そうですねぇ・・・死ぬ前に僕も乗らないと、と思っています・・・」

「お前が死んじゃダメじゃん!C623や鉄文協の事とかさ、やっぱ失敗の原因を知っている奴がきちっとしたポストにいなきゃさ・・・また鉄文協と同じ事になるんなら、機関車が可哀想だろうよ・・・頼むよ!約束したぞ!」

 と言って笑顔で別れた。

 この先輩が急病で亡くなられた事を知ったのは偶然、鉄道ジャーナル社へ伺った時の事だった。

 告別式の御案内も頂いたが、行けるものでは無かった。

 実は余りのショックに鉄道ジャーナル社を出て以降の記憶が無い、未だ四十前の方である。

 それより何より、約束が果たせなかった自分が後ろめたかった。

 国鉄や鉄文協関係に直接又は間接的に、C623機関係で逝かれた人が多すぎる。

 それまでも辛かったには辛かった、しかしこの先輩の早すぎる死はC623機が運行を完了して以降、始めての「死」だった。

 とかくSLと言えば「夢のある話ですね」と言われる、しかしC623機は公式非公式問わず悲しいエピソードも多い、それだけ多くの人を惹き付けるものを持っている機関車なのだろう。

 しかし、私にはこれからC623機や交通文化振興に関わる方に方法論・経験・法規と共に精神論や何より「数多くの想い」を伝える義務があると考える。

 でも、この先輩の死は何より辛かった。

 江ノ電108号は亡くなった少年の情熱と回向の為にも末永く保存されて行って頂きたいし、今後もそうなるだろう、それと同じくらい・・・いやある意味数値的にはもっと多数の想いがC623機に記憶として刻まれている筈である。

 ちなみに別枠で紹介している在来型一般車新造構想の突破口はこの先輩のアドバイスによるものが大きい。

 大河も始まりは一滴の雫である。

 その水流は生死を越えて、やがて大海の大波となる。

 その軌道の基礎造りが私の役割なのだろう、舞台に上がって脚光を浴びるつもりなどさらさら無いが、それらの「想い」に光を当てる事こそ供養であり回向であり、「夢を現実とする」原動力となると確信している。

(2005/08/30)


 お恥ずかし乍ら、岩崎安房はC623機が「海線」つまり函館本線函館〜長万部間を走る「映像」を見たことが無かった。

 7月31日深夜放送の「NHKアーカイブス」で1971年夏制作の「蒸気機関車C−62」が放映され、食入るようについつい見てしまった。

 この時のエピソードを山下仁郎氏から伺った事がある。

「やっぱりロクニとなればツバメの2号機が欲しいのさな、けれど2号機はともかく調子が悪いのさ、重連の時は本務機(後部)が6割、補機(前部)が4割の力で走るから、ちょっとは調子が悪くても良いでねぇか、と素人は考えるのさ、けれど104列車(上り急行ニセコ=番組で取り上げられた列車)も103列車(下り急行ニセコ)も遅れてて構わねぇってもんじゃ無い、全部複線の電化線と訳が違うものなぁ・・・それで2号機を出す時には、一番調子の良い3号機を出した訳さ、考えてみれば随分サービスの良い話さな!」

 小樽築港機関区、つまり北海道に最初に転属したロクニは3号機だったが、3号機が梅小路機関区で一番「優秀な」機関車では無かったらしい、しかし後志を駆ける様になってから3号機は「頭角を現した」とも表現していた。

 番組では2号機のその後は取り上げられていたものの、3号機がJR北海道になってから復活した事を含めて取り上げてはいなかった。

 全体として「そんなもの」と最近は考える。

 これを私は「鉄文協の亡霊」と呼んでいるが、私だけでは無く鉄文協時代に「C62重連復活」を真剣に考えていた人間はかなり多いのである。

 私は重連どころかC623機単機運行も国鉄最後の日の吹雪の小樽築港機関区で見るまではこの眼で見る事は無かったが、原物を見た人達の「取り憑かれ方」は尋常では無かった、しかし前述の小樽築港機関区・・・いやC62機検修にかけては国鉄最高の技術者である山下氏と、鉄道文化記録にかけては我が国最高のジャーナリストであり映像作家である竹島紀元氏は「感情論」や「懐古趣味」を排した、もっと技術的・文化的視点でそれぞれ「慎重派」「推進派」だった。

 そのお二人の巨匠のお側で蒸気機関車を見て、考える事を教えて頂いた自分の幸運・福運は嫌味では無く私の最高の誇りである。

 ただ、その弟子の腑甲斐無さが問題なのだ!

 しかし、14インチのブラウン管でも余りある程の迫力、原物前にしたら確かに後ずさりする程のものだったろう、今日あんな走りは不可能かも知れないが、「重連復活」から七年もあれば、第二・第三の「菊池忠」(小樽築港機関区で随一の技術を持った機関士)が湧出し、十年もすれば「シベリアオオカミ」(山下氏のニックネーム)も続出するだろう。

 人はそんなに愚かでも無い。

 あの迫力は鉄道マニアだけが堪能する快楽では無い。むしろ新世紀の蒸気機関車計画は「人間を熱くするもの」「人間を強くするもの」そして「故郷を元気にするもの」がキーワードのヒューマニティックプログラムで無くば半世紀、いや永遠永久の「存続」など実現し得ないだろうと断言する。

 臆病風に吹かれている私の頬を、真夏の風が過ぎた時、あの熱い夏の日に後志で包まれていた草の香りのする涼風が撫でた。

 私の役割はそんな巨匠達の精神を継承し、後継し、再び熱き「道」を開拓して軌道を敷設する事である。

 その為には喜んで馬鹿になろう。

 そして小樽にC623機とC622機の汽笛が響く時には、若いエネルギーを爆発させた青年達が列車に、沿線に貼付いている事だろう。

 何よりそれが私の義であり、先達達の、そしてロクニの求めるものと心得ている。

 これは偶然に非らず。

 我、再び此処に蘇らん・・・そうC623機は私を揺さぶり続けている。

(2005/08/01)


 7月3日日曜日・・・私は流山「大久保大和守剛本陣跡」の隣で目覚めた。

 前日の夜に地元商店会が主催した「せんげん誠祭」で、史跡とされている長岡屋七郎兵衛邸跡地土蔵前の通りにロウソクを並べたコンテンツの防災対策要員として泊まり込んでいた。

 新選組とC623機、全く関係が無い様に見えて、歴史的には細かい事だが関係はある。

 それもそうなのだが、現在のこの渾沌とした日本で「蒸機復活」を確実にして行く為には、この一見すると寂れた商店会がC623機復活の大きなカギを握っている。

 私は政治家では無い、そんなものになりたいとも思わないし、あんな大変な仕事をやれるとも思わない。が、この国では鉄道は政治と密接な関係を保ち続けているので、単に趣味として好きだの嫌いだのと言っている限りには政治は無関係ではある。しかし、現場の職員や一歩その世界に足を踏み入れた場合にはイヤになる程政治的である。

 殊に蒸気機関車プログラムは、独自の機材としなくても巨額の費用があれよあれよと飛んで消えるもので、実現を考えた場合には「1円の有効的使用」が正否の鍵になるのである。

 その為には無駄な費用=無駄な時間こそ大敵ではある。

 その最先端は鉄文協による前回企画である。

 しかし、その実現には直接政治的パワーは使われなかった・・・むしろ「鉄道屋人脈」のパワーがモノを言ったのである。

 かくしてC623機は走った・・・しかし、7年で破綻した。

 その苦い経験から導きだした私なりの方程式は「地域活性化主眼」と言う事だったのである。

 さて、実効的に鉄道と地域産業活性化を結び付ける方法論を、と言うとこれが案外難しいもので、一定の方程式として簡単には当てはめられない・・・鉄道の性質や地域の特性も大きく左右して来るからである。

 他方、作業内容は差異があってもコンセプトが一定普遍なものがある筈で、「新選組流山本陣守備隊」はそれを見い出す為の壮大な実験場なのである。

 とは言え、C623機の犠牲に流山をするつもりも意図も無い。むしろ流山で大成功をしなければC623機は無いのである。

 昨年3月から現場に出て、解った事が幾つかあるが、その中で最も大きい収穫は、

「誠実こそ最強の信用」

 と言う事である。

 時として余りに道のりが遠く、弱気にもなるし愚癡も出る。しかし、電灯の下で私達ボランティアに多々御馳走を用意して提供し、労いをしてくれる大恩あるかの商店会の人々の姿を若干二日酔いの頭に水を掛け考えれば、遠い様で確実な前進になっているのである。

 しかし、小樽は遠い。

 その精神的距離を粘り強く諦めないで走り続けられるかどうか・・・実はその一点がC623機再復活の「答」だったりするのである。

(2005/07/06)


2005(平成17)年6月16日木曜日・・・雨が降っていた。

 前日深夜に私が一番のお気に入りページの掲示板に、「謎」のメッセージが入っていた・・・左顎が痛む・・・既に歯茎が無く歯が一つ歯根まで露出しているもので、この辛さで全く書類やページ更新が進んで居ない・・・その気分転換で掲示板を覗いた、その延長線にある「謎」だった。

 メッセージは即座に返答されて、それは誰あろう「夢を本当にした男達」の御子息だった。

 彼は東京に居て、自分の限り無い夢に挑戦していた。

 しかしその最中に壁に当たり、人知れず苦しんでいた様子だった。

 返信されたメッセージにあった携帯電話の番号をダイヤルしたのは11時42分だった。そこに聞いたのは、今の私には雷撃の様な内容の質問だった。

「まだ・・・C62の復活を信じているのですか・・・それに進んでいるのですか・・・」

 確かに弱気になっていた自分が居た。

「もう一度、あの汽車が走るのを見たいんです!」

 再復活の可能性は充分すぎる程あるのに、最近それを口にしない様にしているのは確かだったから、である。

 こんな貧乏NPOになにが出来るのだろう・・・日々自問し、疑念すら横切る事もある。

 そんな「臆病」を、彼は喝破したのである。

 非常に恥ずかしい思いがした。確かに交通文化連盟の最終目標として「C62の重連を後志に復活させる」とようやく最近になって掲げる事が出来る様になった。

 それは鉄文協に関わった多々の人々に対する「遠慮」があったからでもあり、体力や気力の減退に見る自身の「弱気」に起因するものでもあり、遅々として進まない経済環境の改善とJRの気質の劣悪化などが速度を鈍らせているからでもあった。

 しかし、何より「臆病」ほど卑怯は無いのである。

 壁に突き当たった彼に実は偉そうな事など言えたものでも無かったが、是は伝えて置かなければならない、私の義務があった。

「不可能を確かに可能とした人の子として、貴方には夢を形にして、それを味わう権利がある、ロクニの夢を現実にした人の子として、誰あろう貴方だけが持つ権利なんです。いや、私は諦めて居ません。諦めたら、築港の人達・・・貴方のお父様達の情熱がウソになってしまう、それをこの眼で見て来た者として、それは出来ないんです。そして、その権利がある事を伝えなきゃならないんです・・・私は・・・」

 近々事務所に呼んで、メシを御馳走しようと思った。

 そんなものでは返せない程の恩義が、「小樽」にはある。

 その為にも着実に、全く遠回りだが確実に「小樽」へ向かう道を進まなければならない。

 或る意味、「C623機」で不幸になった人間の何と多い事か。しかしそれは「蒸気機関車」が人を不幸にしたのでは決して無いのである。むしろ「C623機」を不遇にした人達と言って過言では無い。

 それに欲望と言う詰まらない小さな理屈を付けて、格好付けて偉そうにしていた奴ほど、不幸の度合が深く、また時間と共にその深みは増しているのである。

 私はC623機が好きである。しかし、それ以上にC623機に関わった人間達に強い親愛と魅力を感じるのである。

 そこに人間がいた。

 その人間をウソにしない為に、私は「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」の旗を振り続けて、必ずや「人間勝利の汽笛」のバルブを開けてやる!

 それが後継者の義務であり、権利であるからである。

(2005/06/17)


 或る日、ゲームショップで面白いものを見つけたと後輩がゲームソフトを持って来た。「SLでいこう2」と言うタイトルとC623機のデザイン、「電車でゴー」みたいなものですよ、安房様得意でしょ、C62なら・・・と言うままに彼がゲームをセット。

 始めから「雪の行路」(鉄道ジャーナル社記録映画)のシーン、そして汽車は小樽駅。

 まばらな鉄道マニアや沿線のコープ札幌等建築物の姿から1990年代の春と見え、画面は函館本線でも脳裏は「現場」に戻っていた。

 どうしてもC623機復活が決意できなかった頃だった。

 彼が帰った後、一人徹夜で幾度も「9164」を転がした。

 いきなり上級では厳しいのは判っていたが、意地だった。何か見える気がした。

 稲穂峠手前の桜が満開だった。初日はまだ雪が残っていた。突然小沢から大雨になり、倶知安峠は騙し騙し転がした、「神様」が語っていたC62機運転のコツが突然蘇り、その通りにしたら、越えられなかった倶知安峠を越えていた・・・倶知安からはだらだらの緩い下り、気楽な・・・と思っていたら目の前に虹が掛かっていた、あの「親父」達の笑顔が浮かんだ、と、画面にツバメが・・・

 「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」

 鳥肌が立った。涙が溢れ出て、止まらなかった。

 私怨や愚痴を言い回り腐っていた自分が情けなかった。そんな私に「親父」達がそっと肩を押してくれた。

 ゲームは上手くニセコに到着、と、更に画面が続き吹雪の然別駅へ・・・

 「冬は必ず春となる」

 その春を迎える為に、吹雪の中に飛び出す勇気が必要だった。

 たかがSL、されど私の知る限り幾多の人間の人生を大きく変えた、或は狂わせたSL・C623機にまだ私はやり残した事が多くあった。

 古来より、戦には「天の時、地の利、人の和」が肝要と言われ、また奥義には「機・時・国」を見極める事と解かれている。

 「国」となる北海道や日本は不況で悲惨な有り様、「時」はその不況の真っ最中だからこそ動くべき価値もあり、残りは「機」、機会・機縁・機根である、「何時旗を上げるか・・・」

 2001年1月、後輩の出羽守がNPOについて色々調べて来た。本格的にNPOを調べ、青年文化連盟からNPOへ移管し、同時に認証作業も行うには・・・1年は掛かる、で逆算してみた。

 「7回忌」(鉄文協によるC623機最終運転日・1995年11月3日から7年目)に充分間に合う!

 「機・時・国」は揃った、と確信した。

 前年の2000年12月、或る企画で「小樽築港機関区検修の神様」山下氏とC11207機による列車の同乗をした。

 「やっばりな、山線にはロクニでねぇと、似合わないな!君がもう一度ロクニを出すなら、見てみたいなぁ・・・だからもう少し長生きしねぇばな!」

 「はい!必ずもう一度、今度は健全な形で、永久に残せるロクニを生かして参ります!」

 決意の報告は誰より、この師匠にと思っていた。

 それから慎重だった、法人と言う事もそうだがどうすればC623機とNPOが繋がるか・・・

 「簡単でしょ、それがウチの旗なんだから」

 簡単に言うなよ和泉・・・とか良い乍ら、掲げる「目的」は本音も建て前も無く、C623機復活であった!と言う事に目覚めた。

 一度まとめたPHOENIXプランの企画書を書き直し、2002年11月3日には今までの事を明白に報告し、鉄文協を一旦総括した上で、旗揚げしたい・・・

 そして、私はもう一人の師匠にその報告をする為にJR東日本飯田橋駅に降り立った。

 「君が何処までやれるか、期待してます。」

 誰かに命令される訳でも、動かされている訳でも無い。しかし私には果たさなければ成らない「義」がある。

「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」

 今まで公表も報道もされては居ないが、確かに「不可能を可能」にした人達が居る。その名誉と「確かに此処に生きた」証を立てる為に、C623機は断じて「過去のもの」とはしない。

 それが私達の「義」でありますから・・・。


 日本国有鉄道小樽築港機関区でC623機復活の計画が持ち上がったのは、実は「蒸気機関車復活」が主ではなく、東洋一と言われた扇形庫の保存と、現場そのものの「存続」がテーマでした。

 昭和59年3月に赴任したばかりの当時、区長だった弓削馨氏(現・JR九州)は、もともとは九州の出身の「エリート」で、下山国鉄初代総裁も区長だった「運転屋のエリートポスト」ではあったものの、この機関区の技術力の水準の高さや、伝統に心惹かれて行く中で、誇り高き「築機」をどうやったら護れるかを考えいたと言う。

 当時資材事務掛だった和田幸雄氏が、多々雑談の中で多くのアイデアを持っている事を知っていた弓削区長は、和田職員をチーフとして独断的に「企画室」を設置した。

 ここが最初に産み出したプランが「小樽鉄道硝子」で、扇形庫内に体験型硝子工房を作って、新たな観光スポットとしようと考えた。このプランの練り上げの段階で参画したのが、当時市内望洋台で「442クラブ」と言うレストランを経営していた工藤竜男氏であった。

 和田氏は妻が「らいとはうす」と言うレストランを、やはり望洋台で営もうとしていて、それで面識があったと言うが、札幌テレビ放送のディレクターからフィンランドに渡り空手を教えていた、常に米陸軍の制服を着こなす変わり者が、常人には無いアイデアマンである事は一目瞭然で、役人なれどアイデアマンの和田氏が彼の発想力を高く評価したのは、やはり和田氏自体がアイデアマンであったからなのだろう。

 彼等が「小樽鉄道硝子」の立案中に、「動」のアイキャッチつまり誘客の起爆剤として選んだのが「構内での蒸気機関車動態保存」で、「どうせなら、日本最大最速最美の蒸気機関車を・・・」と言う事でC623機がターゲットとなった。

 硝子工房は今でこそ小樽には沢山あるものの、当時は1・2件のみ、それも「観光」用というより、純粋な硝子工房だった。

 このアイデアはその後の小樽を知る者としては大変適合!なのだが、運河の改修工事(現在の5号線バイパス)ですら遅々として進まない当時の小樽では、斬新過ぎた。当然分割民営化の話題で騒然とした日本国有鉄道北海道総局では取合えない、と言うのが現実だった。

 昭和60(1985)年6月25日、西武建設社長・鉄道建設公団総裁から抜擢された「橋の第一人者」国鉄第9代総裁・仁杉巌が山下徳夫運輸大臣に「国鉄分割民営化の現在案には反対する、国鉄人ならこんな事に賛成出来無い」と啖呵を切って辞任、自民党衆議院議員で落選していた元運輸政務次官・杉浦喬也が後任の総裁となり、国鉄部内で改革を進めていた人材が事実上の左遷をされ、国鉄本社経営計画室長だった松田昌士氏(現・JR東日本会長)が副総局長として札幌に「帰郷」(松田氏は北海道大学法学部卒)して、道総局の雰囲気は一変し、札幌の財界誌に松田氏が国鉄マンに企業人としての意識改革の檄を寄稿したのを見た企画室メンバー達は、首を覚悟で松田氏に直訴した。

 松田副総局長との面会は7月下旬頃だった、と同席していた企画室スタッフの渡部敬吉氏の述懐によるものだが、この時松田氏はこの「禁制の組織破り」を叱るどころか、「小樽鉄道硝子」のプランに「ふくらみ」を暗示すらしている。

 「築港のヤード含めて、広いよなぁ・・・」

 これを受けて、工藤氏+企画室は早速発想を拡大した「リゾートタウン・ぬくもりの街」プランを10月に作成し、松田副総局長に提出している。

 これ以前、4月15日に「プラン全滅」を避けたいとの意向でC623機復活プロジェクトは、扇形庫関係企画から独立して独自に進捗させている。この辺りは「国鉄人」だからこそ知る「国鉄の体質」を逆手に取った戦略であり、鮮やかとも思える。

 これが驚く程現在のマイカル小樽やヒルトンのコンセプトに似ていて、実際出来た築港再開発地区を見た時、私は昭和62年1月にはそのプランを熟読していたので、とにかく驚いた。コピーした?と邪推する程・・・しかし、このプランでは更に完成度の高い「住商観一体」の、まさに「街」となっていた。

 ところが国鉄改革の波は予想以上に急速で、11月には松田氏は本社に転勤するものとなり、「ぬくもりの街」は「C623機」と併せて当時の運輸部長・横山氏(現・横浜で不動産会社経営)に引継がれた。と同時に弓削区長が転任した後の区長は、当局との板挟み状態を打開すべく独断で企画室を解散、渡部氏のみ工藤氏との連絡役として存知するという暴挙にでた。

 これは実質的に「ぬくもりの街」プランの終結を意味するが、残るC623機復活計画まで「立ち消え」となる事を心配した工藤氏と企画室スタッフは、C623機復活で内々に指導を受けていた元小樽築港機関区検査長・「SL検修の神様」或は「シベリアオオカミ」こと山下仁郎氏を経由し、鉄道ジャーナル社長・竹島紀元氏に相談した。

 竹島社長も「雪の行路」等でC623機や小樽築港機関区を深く愛する人であり、学生時代から面識のあった国鉄運転局長・山之内秀一郎氏(現・宇宙開発事業団理事長、元JR東日本会長)と12月に都内で会談、鉄道趣味人としても技師としても名高い山之内局長は、国鉄入社の頃に研修で小樽築港機関区に在籍し、山下氏に師事した事もあり快諾、12月山之内運転局長は直接、道総局運輸部に電話でC623機復活推進を要請した。

 私は是を「運転局長直電事件」と呼んでいるが、これ以降特に易くなったと言う事は無かったそうだがC623機復活が「暗葬」されずに済んだのは事実の様である。

 これ以降、この計画はC623機復活を主題として行くのだが、少なくても小樽築港機関区企画室や松田氏、山之内氏、横山氏達は「経営者」として冷徹に「皮算用」をしたのでは無く、国鉄人として、JRとなったとしてもその誇りを持ち続けて欲しいと思った事、その現場で湧出した「情熱」を高く評価した事、何よりそれらの多くの人間を動かしたのは、「無私」の情熱=一人でも多くの仲間を職場に残そう、一人でも多くの現場に付加価値を付けて残そう、とした国鉄人の魂が、動かしたもの以外の何ものでも無い。

 岩崎安房が山下氏、渡部氏、工藤氏、そして竹島社長から当時、そして近々までこの当時の話を聞く時、話す彼等の瞳が青年の様に澄んでいた事がなにより印象的だった。

 ああ、この人に嘘は無い。

 そう確信出来る。少なくても、その後嘘で塗り固めて多くの信頼と情熱を裏切った(そんな人物も残念だが居た)としても、その瞬間は嘘では無かった。

 昭和62(1987)年3月31日23時59分。

 吹雪の小樽築港機関区で、螢の光を歌い乍ら涙を溜めていた国鉄人達・小樽築港マンの中で一際輝いて、眩しく見えていた・・・彼等に、その瞬間に嘘など不要だった。


 小樽の駅の裏手に、一際目立つ白いアーリーアメリカンの館があり、ホームからもそれは見る事が出来ました。

 それは「小樽時代」と言うレストランで、社長は渡部博子氏、2人の男の子の母でもあったのですが、持って生れた才能と言うべきか、社交力で近所でも好評のレストランだった。

 昭和62年1月、始めて「小樽SL復活の会」の人と直に初めて会ったのは、札幌京王プラザホテルのティーサロンでした。

 長身の男性はジャケットを着て、もう一人は丸いレトロな眼鏡を掛けてアメリカ陸軍・・・それも太平洋戦争当時の士官服を決めていた。

 開口一発

 「代理人の方ですか?」

 「は?いえ、私が・・・」

 事実、2人は驚愕したと後に語って呉れました。

 国鉄上野駅中央案内所気付で、国鉄事業文書便にC623機の復活構想をまとめて突然送りつけて来た男・・・多分OBだろうよ、と言う事で、しかしそれにしては列車や営業制度にかなり煩く書いている、やっぱりそれなりの年齢じゃ無いか・・・と皆で想像したらしい、「構想」送付以来、手紙でしか交信していなかった(殆ど職場=上野駅案内所だったもので・・・)ので、私が幾つで、なんて判らなかったし、危機的状況で協力者がどんな素性かは関係無かった、と言う。

 暫く無言だった2人に名刺を渡し、それを切っ掛けとして、

 「まぁ、珈琲でも飲み乍ら・・・」

 と席へ案内してくれた。

 長身の渡部敬吉氏は、国鉄小樽築港機関区企画室勤務、眼鏡のアメリカ陸軍将校は工藤竜男氏、レストラン442倶楽部の経営者、と言う事だった。

 渡部さんから大体の復活計画までの経緯を、工藤さんから計画の構想を伺い、資料も貰った上で、一点確認された。

 「僕達は真剣です、君は真剣ですか?」

 「真剣です。この機会を逃したら二度とC62の本当に走る姿は見られないと思いますから」

 「何の為に、真剣になれるの?君は小樽の人間でも、これで金儲けが出来る訳でも無いのに」

 「国鉄人として、一瞬でも良いから本物の国鉄人として生きた証しを残したいんです!」

 うっすらと渡部さんが涙ぐみ、工藤さんは満面の笑顔になってくれました。

 「君は僕等の大きい援軍だよ。」

 工藤さんがそう言って、珈琲を口にしました。

 

 「ここが、僕の店・・・多分、JRには残れないから、首になったらここで、ね。」

 と言って連れて行って貰ったのは、船見坂を上がった所のレストラン「小樽時代」でした。

 雪が静かに降っていて、その雪霞みの向こうに小樽の町並みの夜景が、キラキラ輝いてそれは息を飲む程の美しさだった。

 吉野が最初にこの計画に「接触」したのは昭和61年の4月初旬だった。

 友人からの情報で小樽築港機関区C623機計画を知り、そもそも以前から「C623機復活に向けての列車運行=団体専用臨時列車の研究」として、とにかく道内で一本列車を仕立てる事として、その準備をしている最中の事であった。

 3月末から札幌・上砂川を回り、小樽築港機関区へ立ち寄ったが丁度企画室は誰も不在で、その時はそのまま帰って来ました。

 8月17日、その団体専用臨時列車「そらち」の実施翌日、参加者の一部と小樽に観光に来た際に改めて小樽築港機関区に立ち寄り、佐藤助役に名刺を渡して帰ったのです。

 9月になって、小樽築港機関区前検査長・吉田弘美氏の住所を新聞記事で見つけて、早速「構想」を送って見た、その反応は素早く、真っ先に返信を呉れたのが工藤さんだった。

 以来4ヶ月余、初めて接した「小樽の先輩」達は、私の馬鹿が単なる馬鹿で無く、真剣に大馬鹿である事を知ってくれて、「仲間」と呼んで受け入れてくれた。

 当初の「C623機」計画では、小樽〜倶知安間を1日1往復、年間90日程度として、14系客車6Bで「臨時急行」としたものだった。

 とにかくC623機を「本線」に復活させる為の「理由付け」でしか無かったものだが、馬鹿は馬鹿なりに早速噛み付いた。

 「在来型一般車で無ければ、全国区のSLにはなりませんよ、それにニセコと言い、急行とするならば食堂車か軽食喫茶は必要です。日本最大最速最美と言っても、それだけではアピールが弱いのでは?」

 「あのオンボロかぃ?駄目だよ、第一ドアが手動で冷房も無いのに、それこそお客が来る訳ないしょや。」

 「1時間半で、食堂に入る人って、居ないよ、僕はレストランやっているからね、判るよ」

 翌日の夜、工藤・渡部2氏に札幌の公告会社のディレクターと言う宮本洋氏も交えての「会合」となった、その席上での会話である。

 「だけどSLに・・・」

 「はぁ、蒸機と呼んだ方が・・・」

 「良いね、蒸機かぁ・・・62は陸の王者だから、蒸機って方がピッタリだね、それにその・・」

 「在来型一般車、ですか?」

 「そうそう、レトロな蒸機にレトロな客車、悪くないんで無い?」

 そう言ってくれたのは宮本さん。

 「食堂って、それは珈琲の飲める?」

「 はい!イメージとしては喫茶店です。」

 で、3人黙った。実は既にこの時に上島珈琲本社(UCC)のタイアップは決定していたのだ、しかしその時点で私はそれを知らなかった。

 その夜は小樽は晴れていた。身を切る程の寒さだった筈だが、興奮して寒さどころか汗までかいていた。

 「君が考えるのは、どんな汽車?」

 宮本さんはとても物腰の柔らかい口調の人て、そのソフトさが私にとっては緊張をほぐしてくれるものだった。

 「はい、通常は小樽〜倶知安で在来型一般車5両程度、1両は内装を換えて食堂車にします・・・ここは企画書(61年10月に提示したもの)と同じですが、イレギュラーとして札幌から函館まで、蒸気機関車は小樽から倶知安か、皿(転車台)の残っている長万部まで、残りは電機かディーゼル機関車で運行するものです。来年には青函トンネルも出来るので、函館には随分観光客も行くでしょうから、その御客様を小樽へ直接引っ張る為に・・・」

 ここで3人は目配せして、宮本さんが企画書を差し出した。

 「これ、君にあげよう。」

 それはC623機計画のプレゼン用企画書で、2冊あった。

 「初日は一緒に・・・子供達と一緒に乗って、警備を頼むよ。」

 「はい!」

 「それまで、何かと用を頼むけれど、宜しく。」

 工藤さんがそう言い乍ら窓の外を眺めた。

 「また降って来たね・・・」

 雪は、本格的に降って来ていました。

 

 吉野は帰京して直ぐに警備に関しての計画をまとめ、2・3回やりとりをしました。そして、2月下旬になって、渡部・宮本・工藤3氏から同じ日に手紙が届きました。

 内容は、3月31日の国鉄最後の日にC623機が小樽築港機関区で試走(構内公開試運転)する事になった、まだ機密なので外部に漏らさぬ事・・・と。

 17歳の夏、小樽で初めてC623機に出会って6年目、夢が「本当」になる瞬間がやって来る!興奮してただ眠れない夜を過ごして、警備計画書を書いておりました。

 その日・・・昭和62年3月31日、私は「国鉄謝恩フリーきっぷ」を手に、6時発の東北新幹線に後輩達と乗込んでおりました。

 青函連絡船内で打ち合せをし、函館から特急に乗継いで・・・車内は「同じ」フリーきっぷの乗客で満席でしたが、運良く座る事もでき、札幌から臨時のフラノエクスプレス編成による「小樽築港機関区」行列車に。車内は立場も無い程の満員、とにかくC623機を見に来てくれる!そう思うと満員の列車に乗っている自体が嬉しかったものです。

 小樽築港駅から分岐器を渡り、静かに仮設ホームに停車、扉が開いた瞬間、

 ブォーッ

 巨人の雄叫びは車体を揺らす程のもので、仮設ホームに降り立つと、力強いカットオフと共に煙る程の湯気、そして石炭の香り・・・

 もうしゃくり上げて、ただ泣いた。

 その向こうに、渡部さんが見え、走り寄った。

「おーっ!なんだ、泣くんでねぇよ、みっとも無い・・・」

 と言う彼も涙が流れていた。

 確かに、確かに「不可能が可能」となる事実を、「夢が本当」となる瞬間を、それもただ情熱がそれをなし得た事を、私は見たのです。

 後輩達も、興奮して、涙して・・・向こうに山下仁郎氏、工藤さん、宮本さん・・・駆け寄って行くと、工藤さんが丸眼鏡の小さい目に涙をいっぱい溜めて、

 「ほら、やった、やったよ、本当に走ったよ、ディーゼルで動いてるんで無いよ・・・」

 小樽築港機関区職員達も、皆涙を溜めて、警備に、案内にと動いていた。

 C623機、アルコン(アルファコンチネンタルエクスプレス)、フラノ(フラノエクスプレス)と並び、「式典」の準備が始まった。

 私達、北海道鉄道研究会鉄道輸送警備隊のメンバー5人、それぞれ打ち合せ通りに渡部さんと工藤さんの周囲に配置して、整理を行った。

 札幌テレビの中継が始まると、私は耐え切れずに一人、出庫線の端に歩いた。スピーカーからは中継の音声が流れていた。

 「それでは、国鉄への惜別の螢の光を歌います!」

 空を見ると、何処迄も続く闇から、止めど無く雪が落ち、やがて吹雪になっていた。

 もう、私の帰る「国鉄」は無くなる、その瞬間に6年間、友人を失い、殆どの人に馬鹿にされ、相手にもされなかった「不可能な夢」は「現実」として湯気と煙を上げている。国鉄に入れずに命を断った友も居た。JRに残れずに一人ホームの端に泣いていた先輩職員も居た。癌や事故で亡くなった先輩達も居た。

 でも、私は国鉄に短い間だが、生きていた。

 それが過去になろうとしていた。

 零下の吹雪の中で、雪にうずくまって泣いている職員を見た。

 昭和62年3月31日23時59分、それは小樽築港機関区で私が目撃した事実であり、私自身が嫌でも認識しなければならない、「母なる父なる国鉄」との別れだった。

 0時00分、一際長い汽笛が、後志の闇にこだました。

 その瞬間、振り返ると涙に滲む国鉄マン達は、眩しい程輝いていた。そしてC623機も、眩しいほど、目が開いて居られない程に、輝いていた。


 それは1988年4月29日、薄曇の朝だった。

 渡部氏の自宅は、手宮公園の南、赤岩と言う地区で、徒歩20分程で手宮公園に、30分程で手宮の北海道鉄道記念公園(現・小樽交通記念館)に着く。

 札幌運転所事務掛に異動していた渡部氏は、あのC623機奇跡の復活の夜の直後・・・前年4月より札幌運転所に勤務していたが、C623機とは直接は関係の無い仕事をしていた。

 但し、北海道鉄道文化協議会が発足して以来、実質的には技術関係スタッフの指揮者だった事もあり、「無関係」では無かった。

 4月25日より始まった本線試運転は、特別な支障も無く、道内外のメディアも「日本最大最速最美の蒸気機関車の復活」を大々的に宣伝しており、1ヶ月前から始まった日本航空とJRマルスの指定券の発売も順調だった。

 前々日に小樽入りした吉野は、早速鉄文協事務局に行き、警備乗務について工藤事務局長と打ち合せをした。と、工藤氏が困った事がひとつ・・・と言い出した。

 「渡部さん、むくれてちゃってね、初日行きたく無いって言うんだわ、君からひとつ説得してくれないかい?」

 レストラン「小樽時代」へ行き、退勤した渡部氏に挨拶をし、早速説得。

 「ん・・・後でな」

 やはり機嫌が悪い。

 当日はJR北海道幹部やスポンサーの幹部も、そして沿線にはファンも大挙してやってくる。手動扉の在来型一般車、転落事故などあっては・・・と言う事で北海道鉄道研究会・日本トレインクラブ合同の「派遣隊」4名で扉警とVIP警護を行う事として、資料と切符を貰って(但し、切符は買ったのである。この時は添乗ボランティア自体無かったのと、私達は事務局スタッフとして括られていて報告も別段しなかったので、後年発表された鉄文協ボランティアの記録には北海道鉄道研究会鉄道輸送警備隊の記録は殆ど無い)その日は宿に戻った。

 翌日、東京からのチームと合流し、早速現場に出掛け、その足で運河中央橋近くの旧中沢漁網倉庫の事務局へ・・・

 「やっぱり、渡部さん行きたく無いって、これ渡部さんの分の切符なんだ、やっぱり渡部さんも企画室の一人として、C62の初日には乗ってもらわないとね・・・」

 「思ったんですけれど、山下さんや築港OBの皆さんは・・・」

 「え・・・落ち着いてから呼ぼうと思ってね、ゴールデン中は走るしさ」

 「解りました、説得してみます。」

 この日は4人で小樽時代へ上がった。

 夜景がとにかく、美しい。

 「お、来たな!」

 大挙しての来店に渡部さんも喜んだ。特別メニューまで飛び出して、食べ盛りの若い衆達には何よりの褒美であった。

 「竜兄ちゃん(渡部氏長男)や翼(同次男)も、明日は楽しみにしているでしょ?」

 「うん、パパの汽車走るよってな、でもな俺、気に入らないで無くて、悪くてな」

 「え?」

 「鈴木さん(苗穂工場の蒸気機関車組立の神様と言われた技師で、前年急逝)や、山下さん達OB、和田さんや築港企画室の仲間達に工藤君、声掛けてねぇんだ、それに、俺はただの取次役だよ、俺より初日に乗らねぇといけねぇ人間、もっと居るべや。せめて、声は掛けて欲しかった・・・」

 この一年半、彼が自分の為にC623機をやって来たのでは無い事は、誰より私が知っていた。しかし、分割民営化でJR北海道に再雇用された人間の方が結果少なかった小樽で、更に店を開けている関係もあって、やはり渡部氏は妬まれていたのは事実だ。

 「それでも、私は行くべきと思いますが・・・」

 ちょっとむっとした顔をした。でもそれは悪意でも敵意でも無く、むしろ哀しげだった。

 

 翌朝、他の3人は直接ホームへ行く事として打ち合せをし、私は渡部氏の自宅に泊まらせて頂いた。氏の子供達と早めの朝食を取り、準備に取り掛かった。

 「君は行かねぇばな、皆期待しているよ。」

 嬉しかった。

 「竜や翼と行けたら、もっと嬉しいんですけれど。」

 渡部さんの眼に涙があった。

 「良いよパパ、一緒に行っといで!店は大丈夫だから!」

 前夜、奥さんの本音を伺っていた。氏が退勤して店に来る直前である。

 「あそこまで一生懸命だったんだから、そりゃ皆に悪いって気持ちは解るけれどね、亭主が掛けた夢だもん、見せてあげたいよ・・・貴男が説得すればパパは行くと思うわ」

 彼は逡巡していた。

 「なら、小樽築港機関区まで送って下さい!」

「ん、それなら良いよ、行こう。」

 小樽築港機関区は既にJR北海道小樽運転所となっていたが、事務所前には既にC623機が待機し、記念のセレモニーの準備も終わって、関係者のスピーチが始まっていた。

 工藤さんが駆け寄って来た。

 「俊ちゃんに切符渡しておいたよ、一緒に行こうよ、ようやく走るんだよ。」

 「・・・」

 彼は子供達と記念写真を撮っていた。

 所長のスピーチが始まった。どちらかと言えば消極的だった筈だが、

 「私はこの62の復活を思うと嬉しくて、眠れない程であり、職員各位の努力にはただ頭が下がる思いです。」

 と、途端にC623機のドレンコックが開いて、プシューッ!と湯気が立ち篭めた。

 「ほれ、機関車は解ってるわ、嘘だって、な。」

 驚いた私は機関室を除くと、当然誰も居ないのである。

 「独りでに・・・ですか?」

 「機関車は、解ってるのさ。」

 機関士の中でも技倆随一と言われた菊池忠機関士がそっと微笑んで言った。

 

 「2人も乗りたいって、言ってますし、4人では心もとないですよ、一緒に行きましょうよ。」

 「仕方ねぇな・・・」

 「なら、指導役と言う事で・・・」

 「そうかい!渡部さん行ってくれるかい!」

 工藤さんが安堵と喜びの表情をし、2台の車に分乗して私達は小樽駅へ向かった。

 「あのな、あの夜(1987年3月31日)に、俺のロクニの仕事は終わったんだ。」

 そう言わなければ、やるせないのであろう。

 「私も・・・」

 「いや、君のロクニはこれからさ、何が在って、何が起こったか、これから若い人達にそれを伝えるのが使命でねぇか?」

 車は国道5号を慣れた感触で走っていた。

 既に小樽駅2番ホームは興奮の渦だった。直ぐに各員扉に配置を決めて、渡部氏も子供達を連れて機関室へ挨拶に出掛け、私はそれ以前に紹介されていた鉄道誌のOカメラマンを見つけて、最後尾で雑談していた。

 9時51分30秒、テープカットと共に威風堂々とした汽笛を一声、小樽の街に響かせて臨通客第9162列車は走り出した。

 警戒の箇所は4箇所中2箇所、交替で3号車カフェカーで休憩する旨を伝えに車内を歩き回っていると、座席の下から蒸気が漏れている所を発見した。

 「申し訳ございません!何せ産業文化財ですから・・・」

 慌てて雑巾を持って漏洩箇所を止めようとすると、

 「いやいや、こちらももっと気を付けますね」

 スーツの4人?胸には名札「鉄道事業本部長・庄司」と・・・

 「いやいや、汚れますから、そのままで・・・」

 笑顔の4人はJR北海道の幹部席だった!

 一旦、最後尾に戻る途中で、渡部氏親子を見つけた。

 臨通客第9162列車は既に於多萌トンネルを越えて、蘭島駅を通過していた。

 「後で、カフェカーいかねぇか?」

 「はい、それでは・・・余市を過ぎてから・・・」

 

 車内はマスコミや乗客、JR北海道の関係者でごった返していたが、不思議と鉄道ファンは少ない様に思えた。

 余市駅に10時15分、定刻到着だったと思う・・・全員扉警任務に必死で、時間など記録していなかった。1分の停車だが、ホームには「歓迎」の太鼓が響いていた。

 余市を過ぎて、渡部氏と待ち合せたカフェカーへ行く事として、4人で移動をはじめた。

 時折湯気が流れる車窓に群集した鉄道マニアが見える。

 「別にマニアの為にやった訳でねぇよ。」

 苦々しく渡部氏が嫌味を言う。

 が、小高い畑の真ん中で、モンペ姿の老婆が、体を左右に振りながら、右手を振っているのが見えたのだ。

 横断幕も警戒の警察官も鉄道マニアも無く、彼女にとっては日常の農作業の最中での「歓迎」であろう。

 それを見た瞬間、ぶあっと涙が吹出した。

 これだ、これなんだ。汽車やっていて、私が求めていた瞬間は、名も無い一住民が、日常の中で、自然体に汽車を迎えて呉れる・・・・実はこの瞬間まで、私はC623機の復活に駆け回ったけれども、その裏付けとする「目的」が見えなかった。

 汽車が走ると言う事に何の価値があるのだろうか、それに人生を真剣に懸ける程の理念があるのだろうか?・・・

 そこに生活する人々にとっての「自然な日常的な」観光経済活性化の起爆剤、それが汽車であった事に、その老婆の振る手が優しく暖かく教えてくれたのだ。

 同じく、渡部氏も泣いていた。

 「やって、良かったな。な。」

 どこまでも先輩は暖かかった。

 カフェカーでは、UCCのスタッフが一人、ツケひげで明治風のフロックコートで御案内をしていた。ウェイトレス達も「カフェーの女給」さんと言った制服である。

 大きいマグカップに入った珈琲が運ばれて来た頃、向かいに工藤さんと宮本さんも座った。

 渡部さんはさっきの老婆の姿を2人に話して聞かせた。

 「そう、おばちゃん、手ぇ振ってくれたんかい。渡部さん、やって本当に良かったよね。」

 宮本さんが、ちょっと胸を張って嬉しそうに言った。

 銀山駅を通過したのが見えて、私は慌てて交替に行った。

 振り返ると、夢を本当にした男達は、やはり輝いていた。


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